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【4045965】北朝鮮が東海へ弾道ミサイル発射

投稿者: 東海って?   (ID:99v56cWVVGM) 投稿日時:2016年 03月 21日 14:03

北朝鮮が18日午前、東海(日本海)に向けて弾道ミサイル1発を発射した。

 韓国軍の合同参謀本部(合参)は18日「北朝鮮がきょう午前5時55分ごろ、平安南道粛川一帯から東海に向けて弾道ミサイル1発を発射した」と発表した。

 正体がはっきりしないこの弾道ミサイルについて、韓国軍では、およそ800キロ飛行したことをつかんでいる。韓国軍は、射程から考えて、取りあえずノドン・ミサイルと推定している。

 北朝鮮が中距離弾道ミサイルのノドンを発射したのは、2014年3月26日以来およそ2年来。移動式発射台(TEL)を利用してミサイルを撃ったものとみられる。

 ノドン・ミサイルには通常弾頭や化学弾頭を搭載することができ、最大射程は1300キロに達する。韓国全域はもちろん、日本の主な都市も射程に入るという。

イ・ドンフィ記者

チョソン・ドットコム/朝鮮日報日本語版

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  1. 【4119964】 投稿者: 裕福  (ID:W.jTa52gADI) 投稿日時:2016年 05月 21日 21:31

    凍結したわりにいい生活してんじゃん
    北朝鮮
    あ〜NHKは北のスポークスマン?

  2. 【4122578】 投稿者: 貧困ビジネス  (ID:BtnZsw0IHv2) 投稿日時:2016年 05月 23日 22:29

    小島晴則氏は1959(昭和34)年から始まった北朝鮮帰国事業の“現場”の最前線で在日朝鮮人や日本人妻を北朝鮮に送り返す仕事をしてきた人である。その意味では、自分の目と耳で帰国事業にふれ、経過を見守ってきた貴重な証言者の一人だ。当時、小島氏は日本共産党員として“革命精神”に燃えて仕事に取り組んでいたというが、実際にかの地を訪れ、朝鮮労働党員などと接するなかで、帰国事業そのものに大きな《疑問》を抱くようになったという。10年後の68年には、日本共産党を自ら離党。現在は日本人妻問題だけでなく、拉致被害者を救出する「新潟・救う会」の責任者として活動を続けている【出版当時】。帰国事業にかかわった中で、贖罪の意識をもち、現在もこのような活動を行っているのは小島氏のほか佐藤勝巳氏(現代コリア研究所・所長)など全国でもごく少数という。

    ■帰国事業にかかわったきっかけ
     ――小島さんは当時、どういう立場で仕事をされていたのですか。
     「私は在日朝鮮人帰国協力会にいました。日本共産党が中心になって組織したものですが、当時、帰国協力会と日朝協会という二つの組織があって、朝鮮総連を加えて『帰国3団体』と称していました。共産党はかつての日ソ協会や日中友好協会などと同じように、社会主義国との友好団体をつくったんです。北朝鮮ともつくりましたが、それが日朝協会。共産党の外郭団体のようなものです。
     私のいた帰国協力会というのは、北朝鮮に帰国事業が始まるというので、日朝協会よりも幅広い組織として、58年11月に中央につくられ、それから順次各県につくられました。実質的には共産党が全部主導権を握っていました」

     ――当時、新潟では帰国協力会と日朝協会は同じ所に事務所があったのですか。
     「そうです。新潟では第一船が出る直前の昭和34年9月ころ、帰国協力会の設立総会が行われまして、その直後に私も新潟県の事務局に入りました。以来10年間、帰国事業にかかわりました。北朝鮮に帰った9万3000人のほとんどを私は新潟港から見送ったことになります。送った船は150回になります」

     ――それ以前はどのようなお仕事を。
     「当時は20代で若かったですし、革命精神にも燃えていましたから(笑い)、共産党専門の本屋に勤めていました。月給みたいなものではなく、普通の人が月1万円もらうときに我々は2000円くらいで、食事代にもならないんです。一日一食とか二食でしのいでいました。その後労働組合の書記のような仕事をしていました。当時の労働組合はほとんど社会党が握っていて、私は共産党ということでずいぶんいじめられました。そのころ帰国事業が始まるというので、共産党員ならだいじょうぶということで、私が事務局に入ったんです」

  3. 【4123259】 投稿者: 帰還事業  (ID:AyX6VAhAF5k) 投稿日時:2016年 05月 24日 12:17

    北朝鮮を母国とする朝鮮総連の人達は、朝鮮半島の北部出身者だと勘違いしてはいませんか? 

    実はほとんどの人が南部出身なのです。貧困にあえぐ多くの人が、韓国政府による事実上の棄民政策と、左翼勢力の大量宣伝に乗せられて北朝鮮へ帰国していきました。

    しかし北朝鮮の実態が「地上の楽園」から「この世の地獄」と明らかになっても、北を支持し続けざるをえませんでした。ここに、この問題の複雑な所があります。

    また、彼らの帰国 (日本人もいた)に少なからぬ影響を与えた日本のマスコミ・進歩的文化人は、世の指弾を受けねばならない時がいつか来ることでしょう。




    「朝鮮総連と収容所共和国」 李英和 1999年 小学館文庫


    当時の日本共産党は、武装闘争のせいで、支待者を大きく失っていた。そんな共産党にとって、元党員を含む在日朝鮮人の存在は大きかった。家の軒先に選挙用のポスターを貼るにも在日朝鮮人はこころよく応じた。共産党と労働党・朝鮮総連との友好協力関係は、77年頃まで続く。日本政府は、治安維待の観点から、この左傾化した在日朝鮮人運動を嫌った。そんなときに、北朝鮮政府と朝鮮総連の主導によって帰国事業が始められた。日本政府にとって、「渡りに船」の出来事だった。「厄介者払い」ができるからである。帰国事業に対する日本政府の積極的姿勢。そこには、こんな経済的、政治的な思惑が込められていた。

    なお、この積極的姿勢を指して、日本政府による「民族浄化」政策だった、と主張するむきもある。だから、帰国者の悲惨な運命に日本政府と日本赤十字社が相応の責任を負うべきだという。こんな奇論を、帰国事業を担当した朝鮮総連の元幹部が待ち出した。韓国の一部言論機関も、さも大発見であるかのように、これを書き立てた。見当違いもはなはだしい。たしかに、帰国者が向かったのは「南」でなく、「北」だった。日本政府も費用面で援助をした。

    だが、韓国政府が棄民政策をとらず、民団が帰国事業を実施していたら……。日本政府は同じように援助しただろう。行く先が「南」であれ「北」であれ、日本政府にとっては、どちらでもよかったからだ。何でもかんでも日本政府のせいにすれぱよい、というものではない。これを聞いて誰より驚くのは、北朝鮮当局であり、朝鮮総連だろう。帰国事業は、北朝鮮政府が立案し、朝鮮総連が音頭を取った。日本政府は何らの強制措置も採らなかった。日本赤十字社は、帰国希望者に対し、「自由意思」によるものかどうかをチェックした。韓国政府と民団が、帰国事業の実施に反対し、「人道に反する」と抗議活動を行っていたからだ。このことに疑いをはさむ余地はない。

    実際、「帰国要求運動」はすさまじかった。「熱病」のような勢いで日本全土の在日朝鮮人を覆った。「帰国熱」の伝播は、北朝鮮当局と朝鮮総連によって、用意周到に練リあげられたものだった.。まずは、13回目の祖国解放記念日(58年8月15日)に合わせ、神奈川県で朝鮮総連が帰国希望の手紙を金日成首相(当時)に送った。同県は韓徳銖(ハンドクス)議長のお膝元だった。これを受けて、金日成は高らかに歓迎演説をする。58年9月9日、10回目の北朝鮮建国記念日のことだ。演説内容は、帰国の援助と帰国後の生活保障だった。これで帰国熱に一気に火がついた。帰国の早期実現を求める集会が、全国各地で開催される。その回数は二千回以上にのぼった。

    北朝鮮の楽園ぶりを紹介する宣伝物が、在日朝鮮人家庭に洪水のように配られる。地方自治体への請願活動も活発に行われた。早期実現を求める自治体決議が続々と採択される。その数は、46の都道府県、290の市区町村に及んだ。日本の左翼・進歩的知識人やマスコミも、率先して帰国運動の援護射撃を引き受けた。なかでも有名なのが、寺尾五郎氏の北朝鮮訪問記(『38度線の北』新日本出版社)である。紙の銃口からは、「人道主義」と「社会主義賛美」の銃弾が、雨あられと撃ち出された。北朝鮮政府は素早く、日本政府との交渉をまとめた。熱病が冷め、集団催眠が醒めてしまわないうちに、トボリスク号とクリリオン号のソ連船二隻を配船した。1959年12月14日、凍てつくような冬の日である。
    (中略)
    背中を押されるようにして、約10万人が永住帰国した。また、在日朝鮮人の家族として6000人余りの日本人も船上の人となった。ところが、帰国者を待ち受けていた運命は… 「温かい歓迎」どころか、祖国の「ひろい懐」で、労働党と現地住民の"狭い心"にさいなまれた。差別と監視の"洗礼"を受け、密告と粛清の対象とされた。日本での朝鮮人差別から逃れたい。日本では発揮できない知識や技術を祖国に役立てたい。そんな純粋で崇高な思いは、完全に裏切られた。帰国者の夢と希望は、北朝鮮当局の空約束によって、ものの見事に打ち砕かれる。実態は、国家ぐるみの大々的な「詐欺事件」であり、「殺人事件」だった。帰国者の居住地と職場は、労働党によって一方的に決定された。本人の経験や能力、夢や希望とは、まったく無関係だった。

    また、「日本出身者」という埋由で、労働党への入党は難しかった。70年代までは、庶民にとって党員への近道である人民軍への入隊も拒否された。信用ならない連中だから、というわけだろう。もっとも元日本共産党員は別扱いだったようだ。党員証を持っていれぱ、自動的に労働党員になれた。だが、元日本共産党員であることが、のちにかえって災いを招く結果となった。粛清時に、"宗派分子"の汚名を着せる格好の口実とされたからだ。

    必然的に帰国者の生活は苦しくなる。売り食いに次ぐ売り食いの末、とうとう日本からの"仕送り"で生き廷ぴるしかなくなった。ほとんどの者は「生き甲斐」を失い、その日その日を、ただ生きるだけとなった。もちろん、例外もいる。一握りの朝鮮総連の大幹部の肉親がそうだ。留学中、私はそんな人物に出全ったことがある。朝鮮総連の韓徳銖議長の甥っ子だった。彼は破格の待遇を受けていた。私の留学先の社会科学院に勤める研究者だった。だが、仕事もしなければ、勤務先にもほとんど顔を出さない。それでいて、一般の帰国者とはかけ離れた生活ぶりだった。金正日御用達の煙草(ロスマンズ)を吸っては、日本製の自家用車を乗り回す。特別待遇と多額の仕送りのたまものである。

    なにより帰国者の気持ちを重くし、暗くさせたのは、日本出身者への厳然たる差別の存在だった。地方の工場や拡山、農場に強制的に分散配置された帰国者たち。この元在日朝鮮人は、"キポ"(帰胞)や"チェポ"(在胞)とさげすまれた。

  4. 【4137677】 投稿者: SNS  (ID:W.jTa52gADI) 投稿日時:2016年 06月 06日 09:14

    金正恩党委員長をはじめ、北朝鮮当局は、中朝国境で中国キャリアの携帯電話を通じて様々な情報が流入出されていることに警戒している。最近では、「コミュニケーションアプリ」に対しても警戒を強め、厳しく取り締まるよう指示を下したという。

    デイリーNKの両江道(リャンガンド)の内部情報筋によると、「つい最近、『カカオトーク、LINEを使用している住民を見つけ出し、反逆者として逮捕せよ』という指示が降りてきた」という。

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