女子美の中高大連携授業
国公立医学部は何故西日本に多いのか
なぜ西日本に医学部が多いのかは理由がある
明治にさかのぼるんだよ
医学部というのは研究もあるが医師養成が命
医療は患者相手だから地域割りがある、地盤があるんだな
人口構成は今でもそうだが西日本>東日本なんだ
首都圏は例外で、北海道、東北、北関東、甲信越はスカスカ
明治時代は西日本をヨーロッパとすると東日本はアラブだよ
東京(江戸)はドバイというわけ
明治政府は東京に帝大医学部つくればいいだろうと考えた
もともと薩摩、長州、土佐とかの人間だから西日本を大事にするのは
当たりまえ、天皇だって京都の人間だ、話はあうんだよ
臨床医学は徒弟制度だから親方(教授)と弟子(市中病院、開業医)は
切れない関係にある、それが延々と引っ張ってるわけです
首都圏の人口増加は、私立の医師養成機関で対応していったわけですな
じゃあ、なぜ私立で対応したか?
実はそれも理由があるんだが、荒れるから言いません。
新しい時代、波って?どんな時代?
地方では代々続く町医者が、跡取りいなくてどんどん閉鎖されてるんだけど。買ってくれる医師がいないのでしょう。
都会なら売りに出たらすぐに入るのにね。
病院は介護施設に。
大学も地域枠拡大で必死に集めようとしてるけど。
患者さんは施設や技術の問題やら、ネット情報等を頼りに、結局は都会の病院に。
患者さんは高齢者ばかりに?
そこで医学部実習?研修?
もっともっと今の現状が加速されるだけでは?
なんか、スレ題と外れていますが、、、
16.京城帝国大学(ソウル)医学部 大正13年(1926)
17.台北帝国大学(タイペイ)医学部 昭和8年(1936)
なんてのもあります。
やはり帝国大学は地政学的に重要な位置に置かれたような。上の二つもそうですが、大阪や名古屋より先に東北帝国大学や北海道帝国大学が早くに設置されていますし、
>*3.京都帝国大学医学部(福岡) (明治36年) → 明治44年 九州帝国大学医学部
というのも、京都帝大が西日本担当として作られていたとすると、現在の京大の関連病院の分布と整合性があります。
やはり明治〜昭和初期の政府は、最初は殖産興業、次に軍備でカネが無かったのではないでしょうか。
(東京)帝国大学設立から、次の設立(京都帝国大学)まで20年以上、資金がなくて、日清戦争の賠償金で京都帝国大学がようやく作られたと聞きます。その後の日露戦争では、ヨレヨレになりますので、第一次世界大戦後の好景気でようやく私立大学や旧六が整備されます。
というわけで、
*6.大阪医科大-府立(大正08年) → 昭和04年 大阪帝国大学医学部
*7.愛知医科大-県立(大正09年) → 昭和14年 名古屋帝国大学医学部
*8.慶応大学医学部 (大正09年)
*9.京都府立医科大 (大正10年)
あたりは、人口の多い地方政府、あるいは私立に任せてしまったのではないでしょうか。医学部ではないですが、大阪帝国大学と名古屋帝国大学は、それぞれの地元の寄付でようやく作られています。
という訳で、「国公立医学部は何故西日本に多いのか」というのは、専門学校、医大は人口に沿って設置されたが、人口の多い都市はそれぞれに任されて、もっとも余裕のある東京の場合は、私立がそれを担ったという事なのでしょう。
という訳で東京がもっとも特殊なのですが、なぜ私立ばかりで東京府立の医学部が作られなかったのか??というのが私の疑問、、、
東大が邪魔したとか?(笑)
「国公立医学部は何故西日本に多いのか」というのは、専門学校、医大は人口に沿って設置されたが、人口の多い都市はそれぞれに任されて、もっとも余裕のある東京の場合は、私立がそれを担ったという事なのでしょう。
という訳で東京がもっとも特殊なのですが、なぜ私立ばかりで東京府立の医学部が作られなかったのか??
というのが私の疑問、、、 東大が邪魔したとか?(笑)
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前にも書いたが明治新政府にとって江戸は主敵の本拠地、周辺地域は敵軍の親衛隊、重鎮、幹部の領地。
日清、日露、支那事変など軍事費拡大財政圧迫、
旧幕府直轄地の医療政策は官費を使わず「民」で自助努力せよと言うことではなかったのか。
帝国大学、高等学校医学部以外を専門学校とする法令が施行され施設、設備、教員資格、教員数など細かく、
厳しく規定され、条件に満たない医専は各種学校に格下げされた。
また大学令が発令されたときも大学と認可されるには厳しい条件があり私立医専にはハードルが高かった。
戦前までに私立で大学になれたのは慶応、慈恵、日医の3校のみ、後に私立御三家と呼ばれる所以である。
よって首都圏の医療は私立大学3校と私立医専5校が担うことになる。
余談ではあるが慈恵は海軍少将であり軍医総監でもあった高木 兼寛が尽力し認可された。
慶応は東大医学部出身北里柴三郎が認可に尽力し北里の元に東大、京大ほか旧帝大、官立医大、官立医専から
多くの教官が馳せ参じ学閥を越えた陣容となった。今の慶応とは異なり自由闊達な雰囲気であったようだ。
帝大医学部、官立医科大学設立の主たる目的は臨床医養成と言うより研究医、医専、医学校教官の育成であった。
町医者、開業医、軍医養成は公立医専、私立医大、私立医専の役目だったと言える。
そう考えれば首都圏に私立が多い理由になるか?????な。
キーワードは「官尊民卑」と「占領施策」




































