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【3491811】朝日新聞また反日活動

投稿者: まったく   (ID:IhtNTXHaZ42) 投稿日時:2014年 08月 18日 21:08

朝日新聞は慰安婦捏造で30年以上日本人を苦しめ続けた。
また、その慰安婦の嘘がばれたので、今度は兵士が人肉を食べた
とインドの提携新聞に書かせ、それを韓国も報道。
反日女優のアンジェリーナが映画で日本人を貶めるのをやるようですが。
日本政府は慰安婦のときのように後手にならず、
きっちりやめさせるようにしてください。
とりあえず、朝日新聞の国会証人喚問と福島瑞穂の証人喚問を絶対
やって下さい。
「歴史を忘れぬ後代の責務。過去をごまかすのは恥ずべきことだ」
朝日新聞は自分のことはごまかすんですね。よくぞこんなこと言えるものだと呆れます。

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  1. 【3527300】 投稿者: 全知全能の神  (ID:KbPzDcqnsqQ) 投稿日時:2014年 09月 20日 11:12

    朝日新聞に雇ってもらうがよい

  2. 【3528020】 投稿者: 傲慢朝日記者  (ID:2zmJDgHcLsU) 投稿日時:2014年 09月 21日 09:56

    慰安婦報道で官公庁から取材拒否続出 朝日幹部対応メモ入手
    2014.09.21 07:00

     朝日新聞をはじめ記者クラブに加盟する新聞・テレビは政府官公庁に記者を常駐させている。しかし、朝日が過去の慰安婦記事を一部取り消したことで、「取材先から『国益を損ねた』と取材協力を拒否されるケースが続出した」(朝日記者)。そこでこの夏、朝日の幹部らが一部の省庁幹部に対して検証記事の意図や事情などを説明して回った。

     本誌はその際に朝日幹部が説明した内容を某省がまとめたメモを入手した。

     それによると、検証記事をこのタイミングで掲載した理由として、「若手記者からの批判や不満が抑えきれなくなってきていたこと」や「社長らの国会への証人喚問の可能性もあり、それを避けたかったこと」などが挙げられた。

     さらに朝日幹部は、朝日を批判する新聞や雑誌など複数のメディアを挙げ、こういう内容の説明をした。

    「誤報を認めた部分以外をメディアから攻撃されたら、朝日の紙面で反論するだけでなく、積極的に提訴する方針だ」

     その中で月刊誌『SAPIO』や産経新聞などを名指しして、「朝日が訴えたらそれらのメディアはひとたまりもないだろう。彼らは取材力が劣っているからだ」という主旨の発言があった。朝日の驕りと勘違いは救いようがない。

    ※週刊ポスト2014年10月3日号

  3. 【3528262】 投稿者: 朝鮮人は日本人の同胞だった  (ID:2zmJDgHcLsU) 投稿日時:2014年 09月 21日 15:12

    まだ野尻美保子氏のように錯覚している人がいるので、うんざりするが確認しておこう。戦前の朝鮮半島は日本の領土であり、朝鮮人は日本人の同胞だった。したがって中国やアジア太平洋での侵略戦争について、朝鮮人は加害者だったのだ。
    志願して日本兵として戦った24万2000人の朝鮮人兵士は、彼女の思い込んでいるように「給与がもらえる仕事から排除されて軍に志願した」のではない。洪思翊のように、陸大を卒業して中将になった人もいる。朴正煕も陸軍士官学校を卒業して満州国軍少尉に任官し、中尉まで昇進した。

    彼らはなぜ、日本軍に志願したのだろうか。洪思翊は「今の朝鮮は独立国としてはやっていけない。日本と一緒に大きくなり、国力をつけてから独立しよう」と語ったという。朴正煕も同じようなことをいっていた。彼らにとって日本はアジアで唯一、西洋の強国に対抗できる力をもつ国であり、あの戦争は「植民地解放戦争」の側面もあったのだ。

    戦争が終わって「閣下はお国に戻って活躍されることでしょう」と言われたとき、洪中将は「私は日本軍の将校として戦ったので、その責任を取りたい」と答え、マニラの軍事法廷では無言を通し、死刑に処せられた。

    慰安婦は二等兵の20倍以上の賃金をもらい、戦地を転々として兵士に随行した。身売りの場合には借金を返済すれば足抜きできたが、その後も仕事を続けた慰安婦が多かった。初期の(福島みずほが脚色する前の)証言には「連行された」という表現はまったく出てこない。

    しかし朝鮮人兵士が靖国神社にまつられていることは、韓国ではタブーである。韓国政府が慰安婦の「強制連行」にこだわるのも、彼らが「抗日戦争」の被害者だったということにしたいからだ。事実はまったく逆で、朝鮮人兵士は戦地では「皇軍」への忠誠心が日本人より強く、進んで危険な前線に出ていった。それは一人前の日本人として認知してもらうためだった。

    このようにゆがんだアイデンティティの原因は日本の植民地支配にあり、そこで「鮮人」が差別されていたことは事実だ。しかし大部分の労働者は、貧しい朝鮮半島から賃金の高い内地に望んでやってきたのだ。慰安婦も同じである。極貧の朝鮮で、今の貨幣価値で2億円もの貯金ができる仕事は他になかった。彼らはそれが敗戦で失われたことを恨んだのだ。

    来年は日韓条約50周年である。歴代の韓国政権がゆがめてきた歴史を清算し、日韓が加害者と被害者ではなく、かつての同胞として和解するためには、黒田勝弘氏のいうように、感謝と慰労の言葉が必要だろう。「日本のために戦っていただいた朝鮮の軍人・軍属のみなさんに感謝する」という新しい官房長官談話を出してもいいのではないか。

  4. 【3528314】 投稿者: 朝日の社員って  (ID:pm5pMVGchMU) 投稿日時:2014年 09月 21日 16:11

    東電をdisっていたんだもんね。

    笑顔で立てた親指を下に向けながら
    仲良くしようぜ!

    でしょ?
    朝日社員家族とは一生お付き合いしたくないわ。

  5. 【3529233】 投稿者: まったく  (ID:5bS8uttXgAw) 投稿日時:2014年 09月 22日 15:03

    朝日新聞を糺す国民会議という活動があります。
    私も登録したのですが、もし登録しても良いという方が
    おられたら、是非登録してください。
    朝日新聞の捏造によって損なわれた国益を取り戻すため、
    追及の手を緩めてはいけません。

  6. 【3529985】 投稿者: 中国の罠におちる朝日新聞  (ID:5YWjt7HJXzs) 投稿日時:2014年 09月 23日 09:19

    中国の罠におちる――諸悪の根源としての朝日新聞(7)



    (「拉致の原因をつくる――諸悪の根源としての朝日新聞(6)」のつづき)

    ⑦日韓、日中関係を悪化させた=朝日新聞のマッチポンプ報道が全ての原因

    赤峰 ここでは日中関係がなぜこのように悪化してきたのかを中心に論じてみたいと思います。
    もう何度も繰り返し説明されていることではありますが、朝日新聞が中国の軍門に下ったのは1960年代半ばのことだといわれております。それは、1966年からのはじまった文化大革命でそれを報道した日本のマスコミは次々に中国を追放されますが、唯一、朝日新聞だけが残ることができたからです。

    朝日新聞出版の『新聞と「昭和」』にはこう書かれています。
    秋岡【※1】は67年11月、前任の野上と交代。北京赴任に際し、社長の広岡知男から指示を受けた。『それを書けば国外追放になるという限度があるだろう。そのときは一歩手前でとまりなさい。極端にいえばゼロでもいい。』
    【※1】秋岡:当時の朝日新聞社北京支局長、秋岡家栄氏。日中友好99人委員会創設者兼総代表。

    その後の朝日新聞の中国関連報道は、人民日報日本支社かと思うほどの中国寄り報道になってきます。
    1970年04月22日  広岡知男社長が記事「中国訪問を終えて」で文化大革命を礼賛
    1971年08月26日  本多勝一記者が「百人斬り」「万人抗」等、日本軍の残虐を印象付ける捏造コラム「中国の旅」を31回連載
    1971年09月13日  林彪【※2】事件を否定・隠蔽報道
    【※2】林彪(りんぴょう):文化大革命で失脚した劉少奇に代わって毛沢東の後継者に指名されるが、「反革命集団の頭目」と指弾され、逃亡の途中、墜落死した。世界のマスコミも林彪が失脚したことを報じた際にも、朝日新聞は「変化はない」と報じた。
    1985年08月05日  加藤千洋記者「中国『日本的愛国心を問題視』」という記事で、靖国問題に火をつける

    また、中国のチベット弾圧に関しても、基本的に中国の立場に立った報道を展開しています。
    1989年10月07日  社説【※3】でダライ・ラマ14世がノーベル平和賞に選ばれた際に中国の意見を代弁。
    【※3】社説:中国は"内政干渉"だと強く反発しており、平和賞が対立を助長させる原因ともなり、そうなれば"平和賞"の名が泣くことになる。ダライ・ラマ陣営はこれを機に和解のために行動することを願う

    ※「靖国問題」を引き起こした加藤千洋氏ついては、以前にも詳細に述べていますので割愛します。(「歴代首相の靖国神社参拝を妨害した朝日新聞 加藤千洋元記者」ご参照

    横井 さて、朝日新聞は、1990年代までに120万人もの人が虐殺されたチベット弾圧や、1972年までに36万人虐殺されたというウイグル自治区への武力弾圧については確かに何も報道していませんね。

    藤原 2008年の北京オリンピックのときに、チベット人が再び抗議活動を起こして、中国政府は武力弾圧したことがありました。ここでも多数の死傷者がでました。世界中が中国を激しく非難しました。しかし、このときの日本政府は自民党福田政権下にありましたが、中国に配慮して、強い抗議をしませんでした。
    それに対して朝日新聞は、「首相はもっとしっかりと中国へ語るべきだ」とする社説を掲載したのですが、かえってそれが大問題になったことがあります。「朝日こそこれまで何もチベット問題について報道をしてこなかったではないか」との批判がマスコミ業界から続出したのです。

    横井 2008年3月20日の『朝日川柳』には、「五輪前どうにも邪魔な生き仏」という川柳を掲載して物議をかもしました。これが朝日新聞のホンネでしょう。
    朝日新聞は言い訳をしていましたが、これはチベット人とチベットの統合の象徴であるダライ・ラマ14世に対する侮辱です。こういう態度に朝日新聞社の人格の低劣さがみえます。

    藤原 ところで、中国の対日政策にも朝日新聞の論調が大きく関わっていると思うのですがいかがでしょうか?
    中国は国家をまとめるために反日政策をとりました。それが顕著に現れたのが江沢民政権からですが、僕は、江沢民の露骨なまでの反日には、朝日新聞と外務省のチャイナスクール【※4】が多いに関わっているのではないかと考えているんです。まず、当時の時代状況を概説していただけませんか。
    【※4】チャイナスクール:文化大革命時代に中国で中国語研修を受けた外交官で親中派と目される。

    赤峰 まずは、鄧小平氏の時代から考えてみましょう。
    鄧小平氏が最高権力を握った時期は1978年あたりから1992年までですが、死亡する1997年までの間も最高実力者として君臨していました。
    鄧小平氏は、1982年に成立した中曽根康弘内閣を警戒して、全国に日本の中国侵略の記念館・記念碑を建立して、愛国主義教育を推進するよう指示を出しています。日本のマスコミなどでは「親日家」のイメージで語られがちですが、実際にはそれは虚像のようです。
    この間の在中国大使は、佐藤正二、吉田健三、鹿取泰衛、中江要介(日本日中関係学会会長)、中島敏次郎、橋本恕、国廣道彦、佐藤嘉恭(日中友好協会副会長)の各氏です。この中で、赤字の人がチャイナスクールの代表的人物です。
    次に、反日政策を強力に推進した江沢民氏(1992年から2004年までの期間)ですが、つい最近まで院政を敷いていたといわれています。江沢民氏の対日政策は、一貫して反日・強硬路線でした。天安門事件で経済制裁や、ソ連崩壊の影響で中国が崩壊することを恐れ、政治への不満から目を逸らせるために愛国主義教育(反日教育)を推進しました。
    この間の在中国大使は、谷野作太郎、阿南惟茂(日中交流センター所長)です。谷野氏は小泉純一郎首相の靖国神社参拝の中止を進言しましたし、阿南氏も小泉純一郎首相宛てに靖国神社への参拝の中止を要請する内容の具申書を打電した人物です。

    藤原 こうして振り返ってみると、中国にいた日本の外交官もマスコミの代表も、反日親中の人ばかりですね。中国政府から見れば、「日本人の総意」だと思い込んだのかも知れませんね。

    横井 たしかに、朝日新聞や外務官僚の反日親中の行動は江沢民氏らに、間違った認識を与えたのではないかと思います。江沢民氏は1998年11月、中国の国家元首として初めて日本を訪れましたが、その際、非礼な振る舞い行っています。今上陛下と当時の小渕恵三首相に対して過去の歴史に基づいた謝罪要求をし、さらには、宮中晩餐会の席上、答礼のスピーチで、過去の歴史について日本批判を行っています。
    それでも、外務省はこのような中国の反日教育に対してはなんら対抗措置も取らず、中国に対する莫大なODA(政府開発援助)を続け、中国はODA資金で「反日施設」を中国国内につくり続けていますからね。

    赤峰 中国問題に詳しい評論家の宮崎正弘氏の『中国権力闘争』という著作の中にこういう記述があります。

    嘘の集大成をパネル展示した「愛国教育基地」なる施設は中国全土に266ヶ所ある。江沢民政権が地方政府に命じ、予算もつけた。歴史博物館とか郷土歴史館にたぐいする建物に併設したり便乗したりして勝手な歴史を展示した。新設した設備もある。このうちの208ヶ所がいわゆる「反日教育施設」だ。そして中国政府は「不正確な展示で日中友好を傷つける」という日本側の抗議に頬被りし、「中国に反日記念館はない。あるのは愛国教育基地だけである」と嘯(うそぶ)いた。

    藤原 朝日新聞を筆頭に堂々と中国に「言うべきこと」を言っておけば、こういうことにはならなかったと思うのです。実に、国益を損ねることばかりしてくれたものです。
    朝日新聞も中国からの便宜供与をえるために、日本人としての心を売ったとしか思えません。

    赤峰 元官僚で政治評論家の林雄介氏がツイッターでこう述べています。
    国際外交は、相手国にあわせてやるのが常識。弱くでたら強気でくる中国、韓国には日本も強気にいかないといけない。譲歩したら、譲歩する国には譲歩しなきゃいけない。やり方を相手国の気質にあわせて変えるのが外交。金太郎飴外交をやるから問題が大きくなる。韓国相手に譲歩したら駄目。
    中国と韓国は全く文化も歴史も違う。中国は恨の文化はない。恩は恩、仇は仇でわけて考えるから、強くでるところは強く出て、恩は恩で売っておけばよい。韓国は絶対に弱味を見せたら駄目。190の国があったら190通りに接し方を変えるのが正しい外交。日本は同じやり方で外交する。(9月14日)

    横井 そうですね。だから、いま安倍総理が堂々と日本の立場を主張しています。本来の姿勢に戻しています。
    結局、朝日新聞はジャーナリストの本分を忘れ、中国を増長させ、日本を貶めるために、中国で活動していたということです。

    藤原 さて、もう一方の韓国と朝日新聞の密接すぎる関係と、朝日新聞の扇動によって日韓関係が最悪の状態になったという問題は、前節と「朝日新聞の大誤算」をご参照いただきたいと思います。

    赤峰 ここで、朝日新聞のことをよくご存知の識者から超弩級の情報が入りましたのでお伝えします。

    ・朝日新聞社は、「ねつ造記事問題」が、朝日の「根本的な犯罪」にまで波及するとは想定していないようです。
    ・根本的な犯罪とは、中国政府と共謀し、「日本を中国の属国にする」という計画です。
    ・この根本部分が明らかにされない限りは、謝罪しようが、訂正記事を書こうが、それは一時的なそぶりにすぎません
    ・朝日の首脳陣は、中国との関係に踏み込まれる前段階で、何とか謝罪や訂正で済まそうと考えています。
    ・なんとか通り過ぎるのを待ちさえすれば、根本計画は継続できると考えています。
    ・ねつ造問題の背景には、このような問題が厳然として存在していることを見落としてはなりません。


    つづく

  7. 【3530836】 投稿者: 朝日反日思想の撒布  (ID:5YWjt7HJXzs) 投稿日時:2014年 09月 24日 07:11

    反日思想の撒布【戦後から1960年代まで】
          ――諸悪の根源としての朝日新聞(8)


    (「中国の罠におちる――諸悪の根源としての朝日新聞(7)」のつづき)

    ⑧―1/4 左翼文化人の跳梁跋扈=朝日新聞が左翼文化人を育成した


    赤峰 2014年9月15日の産経新聞の1面に京都大学教授の佐伯啓思氏が「歴史観の欺瞞示す朝日虚報」ということを書いています。一部引用いたします。
    私が学生のころといってももう40年ほど前のことだが、朝日新聞は圧倒的な権威をもっていた。いわゆるサヨク全盛の時代である。とりわけ学生にとっては新聞といえば朝日であった。その朝日新聞が「炎上」している。(中略)
    戦後日本は大東亜戦争を、日本のアジア進出が引き起こした侵略戦争とし、その反省に立って戦後の民主主義、平和主義国家へ転換を果たしたことになっている。戦争を引き起こしたのは世界制覇を意図した軍国主義的な勢力であるとするポツダム宣言を受け入れ、その下でアメリカの占領を認めたのである。この歴史観を受け入れる限り、戦後の日本はアジア諸国に対して加害者となる。かくて戦後の日本人はアジア諸国に対するある種の負い目を感じてきた。とりわけ中国、韓国に対してはそうである。(以下略)

    藤原 佐伯氏の分析をみれば、戦後からの朝日新聞の立ち位置がよくわかりますね。まさに、日本は戦争の加害者であって、それを糾弾するのが朝日の使命であると自負しているわけですね。この論理に立つならば、朝日新聞こそが加害者の筆頭なのです。大東亜戦争を煽り続けたのは朝日新聞【※1】であったわけですから。

    【※1】開戦直後の朝日新聞の見出し:「ハワイ・比島に赫々の大戦果 米海軍に致命的大鉄槌」、「米太平洋艦隊は全滅せり」、「我損害、率直に公表 米、苦しまぎれのデマ」、「味方”に狼狽、同士討 無電むなし忽ち七十余機撃墜 笑止、ハワイの高射砲」、「確保せよ”南の富” 洋々たり、我が資源作戦」、「(『大東亜戦争』の呼称に対し)大理想、直截に表現 対米英戦の呼称決す」、「初作戦の落下傘部隊 南海の大空に純白の戦列 着陸!忽ち敵陣地へ猛攻 壮絶、海軍のセレベス急襲」、「この万歳 全世界も聞け 一億の歓喜と感謝 けふぞ爆発」

    横井 こういう自分の立場を巧妙にすりかえるところが、戦後の進歩的文化人といわれた人の狡猾さですね。加害者であるべき自分をいつのまにか被害者として振舞い、まるで免罪符を手に入れたかのごとく日本を断罪してきました。朝日新聞、岩波文化人、日本共産党、これらは一卵性の三つ子のようなものですね。
    現在の論調からすると、朝日新聞と日本共産党は微妙に違うように思えるかも知れませんが、同根です。これは、日本共産党が占領軍GHQによって解放されたときの朝日新聞の論調【※2】をみればすぐにわかります。共産党の解放をわがことのように喜んでいます。

    【※2】1945年10月11日付 朝日新聞:十五年の忍苦の甲斐あって今回解放された日本共産党徳田球一、志賀義雄、金天海氏等十五氏を迎へる『人民大会』は十日午後二時から日比谷公会堂の広場で遂行されるはずであったが、飛行館に変更し、(略)『民主主義万歳』『生活必要物資ハ人民ノ管理ニ』等のアジビラの下には、(中略)デモクラシーと共産主義を謳歌し、天皇制の打倒なくして人民の真の解放はありえないと絶叫した。(中略)大会終了後直ちに赤旗を打ちふって街頭デモに移りマッカーサー司令部前で万歳を叫んで解散した。

    藤原 現在の共産党は仮面を被っておとなしく見せかけている存在ですが、当時の共産党は暴力革命を起すと宣言している過激派集団でした。「軍事方針」に「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」として「われわれは、武装の準備と行動を開始しなければならない」と掲げているほどでした。
    実際、警察署等襲撃(火炎ビン、暴行、脅迫、拳銃強奪)、警察官殺害(印藤巡査1951.12.26、白鳥警部1952.1.21)、検察官・税務署・裁判所等官公庁襲撃(火炎ビン、暴行)などを行っています。また、1952年には血のメーデー事件【※3】、吹田事件【※4】、大須事件【※5】の三大騒擾事件を起こしています。すべて、北朝鮮を支援する在日韓国人との共闘です。

    【※3】血のメーデー事件:、1952年5月1日、皇居外苑で発生した、デモ隊と警察部隊とが衝突した騒乱事件。在日韓国人、日雇い労務者ら6000名が参加し、1232名が逮捕され、うち261名が騒擾罪の適用を受け起訴された。

    【※4】吹田事件:1952年6月24日大阪大学で「伊丹基地粉砕・反戦独立の夕」が開催、学生や在日韓国人など約1000人が参加しデモ。吹田駅で警官隊と衝突し、111人が騒擾罪で起訴された(被告人1人は韓国に強制送還された)

    【※5】大須事件:1952年7月7日名古屋市大須球場に1000名の日本共産党員や在日朝鮮人が集まり無届デモを始めた。制止しようとする警官隊にデモ隊は四方に分散して波状的に火炎瓶攻撃を行う。最終的に269人(半数以上が在日韓国人)を検挙した。

    赤峰 騒擾事件が相つぎますと、知識人といわれた人は「革命が起きる」と信じ込んで、別にマルクス主義でもないのに、急に、反日的言動をとりはじめたと聞いています。革命にでもなったら知識人が一番先に糾弾される対象ですから、こうした騒擾は知識人に暗い影を投げかけたんだと思います。

    横井 そういう時代背景の中で、知識人に悪影響を与えたのが朝日新聞であり、岩波書店の『世界』という雑誌だったわけですね。両者とも、共産党へのシンパシーを感じているからこそ、反日・反米、親ソの論調で誘導してきたわけですよね。いまの親中の路線の前は、親ソでした。共産主義革命の国・ソ連への憧れが非常に強かったのも朝日新聞や岩波の特徴でした。

    赤峰 九州大学に労農派マルキストの向坂逸郎という名物教授がいましたが「社会主義政権になれば軍隊を持っても良い」とか「ソ連は日本などよりはるかに自由な国で、思想の自由も日本とは比べものにならない」と言い切った人がいたくらいですから。朝日新聞同様、自分に都合のいいところだけを切り張りして論文にしていますよね。

    藤原 ところで、戦後の初めの過激な共産党の暴力革命闘争は、国民から嫌われまして、共産党も分裂します。いまの過激派の母体となったグループと、穏便な大衆運動路線という二つのグループです。いまの日本共産党は後者になります。ただし、穏便にみせかけているだけです。            
    1952年に日本共産党の幹部だった志賀義雄氏がこんなことを言っています。
    「何も武装闘争などする必要はない。共産党が作った教科書で、社会主義革命を信奉する日教組の教師が、みっちり反日教育を施せば、三、四十年後にはその青少年が日本の支配者となり指導者となる。教育で共産革命は達成できる。」、「青少年に対し祖国の前途に対する希望の灯を奪い、祖国蔑視、祖国呪詛等の精神を植え付けることが、革命への近道だ」

    横井 志賀氏の言葉通りの展開になって戦後教育が行われてきたわけですね。その旗振り役が朝日新聞であったわけです。あの頃から、朝日新聞は、日教組教育を批判しようものなら、紙面で「保守反動」、「ファシズム」などの罵声を浴びせて、保守的な意見を圧殺してきたわけです。

    藤原 ところで、横井さん、こうした反日思想の理論的支柱になった人物がいると思うのですが、その特徴的な人物を挙げていただけませんか?

    横井 時代を区切りながら、また朝日新聞の思想性を加味しながら分析をしてみましょう。戦後の初めは、南原繁氏とその弟子の丸山真男氏でしょう。

    南原氏は東大の総長になった人物で、1951年のサンフランシスコ講和条約【※6】をめぐって、時の吉田茂首相と激しく対立し、吉田茂氏から「曲学阿世の徒」と名指しで批判されたことで有名です。また、「昭和天皇の自発的退位」を主張した人でもあります。

    【※6】サンフランシスコ講和条約締結をめぐっては、『西側陣営』と講和を結んで独立を果たそうとする【吉田首相ら保守陣営】のか、全面講和と言う形でソ連などを含む【南原らソ連派】との論争があった。当時は東西冷戦がはじまり、全面講和では日本は独立は不可能な状態であった。また、その弟子に当たるのが、丸山真男氏です。日本の政治学やジャーナリズム論の教祖になっていて、未だに丸山氏の著書【※7】が学生たちに推奨されています。

    【※7】『日本の思想』:この中にある『「である」ことと「する」こと』は高校の現代文の教科書にも採用されている。

    赤峰 丸山真男氏がジャーナリズムに与えた影響は大きいようですね。朝日新聞にとっても大変尊敬する人物のようで、著作物をかなりの数、発行しています。

    藤原 1960年の日米安保条約締結のときには、丸山氏、安保反対の市民運動の旗手になって行きますね。丸山氏は、日米安保条約批准の強行採決を批判し、民主主義を守ると主張して2500人の前で演説をしたという話があるくらいですから。そういう丸山氏の姿勢に朝日新聞は大喜びだったはずです。

    横井 あの当時の安保反対の運動は熱病みたいなもので、日本人のナショナリズムを反米に向けさせたソ連の思惑が強く働いているものでした。この闘争は、米ソ冷戦の真っ只中で、ソ連に肩入れする反日勢力が朝日新聞などのマスコミを通じて「安保反対」の機運をつくっただけのものなんですね。だから、反対を叫ぶ殆どの人が「日米安保条約」の内容を知りませんでした。相当に日本に有利な条約で、アメリカが片務的に「日本を守る」という条約だったのですが・・・。
    それでも安保反対派は「強行採決が悪い」、「アメリカと手を組むと戦争になる」とかいう極めて情緒的な反対運動を行っていました。

    赤峰 ところで、この安保闘争の際に、また一人、有名な扇動者がでてきますね。社会学者の清水幾太郎氏です。かれについての分析も横井さんお願いします。

    横井 清水幾太郎氏ほど思想的に数奇な運命にあった人はいないのではないでしょうか。戦中は読売新聞の論説委員として戦争に協力し、戦後はマルクス主義に近い立場をとって「進歩的知識人」のまとめ役になって安保闘争の主役のアジテーターになりました。そして、安保挫折後は、「日本に回帰【※8】」したといわれています。

    【※8】『日本よ 国家たれ:核の選択』(諸君)で平和運動を批判した。これにより保守論壇から大歓迎で迎え入れられた。

    SBI大学院大学客員教授で評論家の池田信夫氏は清水氏をこう評価しています。

    清水の軌跡は、朝日新聞に重なる。戦時中は軍国主義だった朝日は、戦後は絶対平和主義に転向する。60年安保のときも、清水と同じように「安保条約は憲法違反だ」とか「強行採決は民主主義の破壊だ」という論陣を張ったが、条約の内容にはふれなかった。それは旧安保を日本にとって有利に改正するものだったからだ。
    そして清水が「核の選択」を書いたころ、朝日新聞は原発推進の論陣を張る。これも動機は同じだ。「革新陣営」の賞味期限が切れ、「現実派」のほうが受けるようになったからだ。このころは石油危機の衝撃もあり、大江健三郎氏まで含む多くの人々が「原子力の平和利用」に希望を見出していた。

    藤原 朝日新聞は、丸山真男と清水幾太郎という二人のアジテーターとともにあり、そして、志賀義雄氏がいう「青少年に対し祖国の前途に対する希望の灯を奪い、祖国蔑視、祖国呪詛等の精神を植え付けることが、革命への近道だ」との考えを忠実に歩んできたと言えますね。

    赤峰 それでは、ここで戦後の思想界を評論している識者からのお言葉をいただきます。

    ・今も昔も、反日思想家たちは、理論の根拠が浅く、人々の幸福を願う精神性も希薄です。
    ・はっきり申し上げると、知的考察や、歴史の検証能力の程度が低く、思想的な深みはありません。
    ・その理由は、彼らの理論の前提となる動機の部分にあります。
    ・「政権を倒したい」「国家を転覆させたい」「日本を他国に侵略させたい」という思いに根ざしているからです。
    ・ここには国家を愛する気持ちも、国民に対する愛情もありません。
    ・あるのは「憎悪」、「恨み」、「嫉妬」「恐怖心」のような感情だけです。
    ・すぐれた思想とは、やはり、深い愛情に裏付けられた高度な知性によって確立されるものです。
    ・そのような知的巨人があらわれることを期待しています。

    つづく

  8. 【3531685】 投稿者: 極左になった朝日新聞  (ID:5YWjt7HJXzs) 投稿日時:2014年 09月 25日 06:47

    極左になった朝日新聞【1960年~2000年まで】
        ――諸悪の根源としての朝日新聞(9)



    (「反日思想の撒布【1960年代まで】――諸悪の根源としての朝日新聞(8)」のつづき)

    ⑧―2/4 左翼文化人の跳梁跋扈=朝日新聞が左翼文化人を育成した

    赤峰 朝日新聞整理部長や『週刊朝日』副編集長などを歴任した稲垣武氏という方がおられました。朝日新聞人でありながら、朝日新聞の報道姿勢の問題点を鋭く指摘された人です。こういう辛らつな意見を述べております。
    「ブンヤは他に売るものがないから国を売るのではないか!」
    また、稲垣氏は『「悪魔祓い」の戦後史』の中で進歩的文化人たちをこう評しています。

    抽象的な原則論を繰り返す人、オールオアナッシングの考えをする人、現実よりも宗教的教義を尊重する人、侵略してくる外国の軍隊を歓迎しようという人、日本人のシベリア抑留を「ソ連が養ってくれた」という人、親米の日本は武装してはいけないが、共産主義になれば武装すべきという人、中国の軍隊は怖れないけれど、自衛隊を恐れる人、裁判制度よりも人民裁判を望ましいと考える人、憲法は第9条だけと信じている人、ダブルスタンダードの人、ソ連の悪行は見えない人、中国のウソには気づかない人、教え子を戦場には送らないが、この地を戦場にする人、加害者の権利を被害者の権利より優先する人、反省をしない人、常に責任をとらない人

    藤原 まさにその通りです。進歩的文化人、その代表である朝日新聞は稲垣氏の指摘がすべて当てはまりますね。朝日新聞の紙面は、昔から稲垣氏の指摘のようにつくられているのがよくわかります。

    赤峰 60年の安保闘争が敗北で終わりまして反日の動きも挫折するわけですが、それでも朝日新聞は巻き返しを図ろうとしました。とくに、朝日新聞の労働争議の一方の旗頭であった広岡知男氏が、朝日新聞社の内紛「村山事件」のどさくさにまぎれて社長になって以降の朝日新聞の左傾化は一層ひどくなりました。
    広岡氏は、社長を五期十年、会長を二期四年、専務時代を含めると在社の半分近くを役員で過ごし、一時代を画した朝日のドンです。

    元朝日新聞社研修所長だった本郷美則氏は次のように広岡体制を論じています。
    お家騒動で、広岡知男が政権を奪い、体制を左翼・組合人脈・経済部出身者を軸に固めるようになってから、様相は一変した。朝日新聞社は、明確に一九六四年の広岡政権樹立以来、新聞社というより、社会主義革命を志す活動家を主流とするプロパガンディストの政治集団と化して、今日まで、その面妖な人脈の支配を連綿と続けているのだ。

    また、広岡氏の有名な話の中にこういうものがあります。
    それを書けば国外追放になるという限度があるだろう。そのときは一歩手前でとまりなさい。極端にいえばゼロでもいい。書けなきゃ見てくるだけでもいいんだ。
    当時、中国は文化大革命の最中にあり、日本のマスコミは朝日新聞を除いて追放されていた1966年9月のときです。広岡氏は北京赴任者にそのようにいったわけです。

    藤原 このような状況になれば、朝日新聞内部からも過激派と同じ極左勢力が出てくるのは当然でしょうね。横井さん、思想的な問題を含めて、朝日新聞が起した事件を解説してください。

    横井 朝日新聞の思想は、日本共産党と同根の反日思想と、共産党から分裂した暴力革命を指向する極左的な思想の二つが共存していると感じています。まずは、極左思考のグループが何をやってきたのかを考えてみたいと思います。
    60年安保闘争の挫折から、学生運動も日本共産党系と反日共系に分裂します。両者ともいがみ合いながら大学を中心にして70年安保粉砕を叫んでいました。とくに、反日共系の学生は「全共闘」を結成し、学内では、学生会館占拠、バリケード封鎖などを行いながら、次第に勢力を拡大していきました。また,街頭デモでは火炎瓶などを投げて騒擾を引き起こしていましたので、社会問題化していました。
    そうした中でも、マスコミは学生に同情的だったのですが、朝日新聞は抜きんでていました。朝日新聞社発行の『朝日ジャーナル』には、全共闘の論客も紙面に登場させるなど、半ば英雄的な扱いをしています。
    しかし、70年安保は自動延長でしたから、かれらの闘争目的は果たせませんでした。結局、学生運動は目標を失い、一層過激になり、仲間同士で争う内ゲバや、ハイジャック、反戦目的のテロ活動などに向かい始めたのです。
    そんななかで、朝日新聞が密接に関わったテロ事件が起きます。1971年8月21日に起きた、朝霞自衛官殺害事件です。概要は、赤峰さん、説明をお願いします。

    赤峰 陸上自衛隊朝霞駐屯地で、歩哨任務中の一場哲雄陸士長が、何者かに殺されました。後に学生3人が逮捕され、協力者として朝日ジャーナルの記者が逮捕されています。この記者は朝日新聞を退社処分となります。【※1】

    【※1】10月5日発売の朝日ジャーナルに「謎の超過激派赤衛軍幹部と単独会見」という記事が掲載された。この記事には、まだ一般に公表していなかった「警衛腕章」の強奪を示唆していたことから、犯人しか知りえない事実であることが判明した。朝日ジャーナルの記者川本三郎は1971年2月から犯人と親交を結び、犯人に金を渡すなどの便宜を図り、その見返りにスクープ報道の材料となる情報の提供を受けていた。川本はさらに犯人から犯行の唯一の物証である「警衛腕章」を受け取り、同僚記者の妻にこれを託し、1971年9月上旬に朝日新聞社高井戸寮の焼却炉で灰にさせていた。

    藤原 それと、酒井信彦元東京大学教授のお話の中にこういうものがありました。
    1974年8月30日には、東京・丸の内の三菱重工の玄関で爆弾が爆発し、8人の死者と数百人の重軽傷者が出た。この犯人は翌年5月になって逮捕されたが、「東アジア反日武装戦線」という極左暴力集団であった。朝日新聞は、事件発生の直後、31日の朝刊に、ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)事務局長の「こんなことをやった人間が悪いといってしまえば簡単だが、やはり背景を考えなければならない」とのコメントを載せた。テロリストに理解を示したようにも感じる。

    横井 朝日新聞の極左体質がよくわかったと思います。現在でも、極左体質をもった社員はかなりの数いるはずです。この点は評論家の吉本隆明【※2】氏から受けた影響もあるでしょうね。

    【※2】吉本隆明:『共同幻想論』が有名。全共闘運動の教祖的存在。漫画家のハルノ宵子は長女。作家のよしもとばななは次女

    赤峰 現在、聖学院大学学長で東京大学名誉教授の姜尚中(カン・サンジュン)氏は朝日新聞の中で
    全共闘運動が最後の光芒を放った東大闘争の明くる年、吉本の著作と出会ったことは、上京してきたばかりのしがない「在日」の大学生にとっても大きな事件だった。吉本の丸山真男論をはじめて読んだとき、わたしはすかさず教祖にひれ伏す「信徒」になっていたのである。
    と述べているくらいでして、吉本隆明の思想は当時の学生に重大な影響を与えています。この吉本氏の思想は、いまもなお朝日新聞のなかに相当根強く残っているものと思います。

    横井 とくにそういう過激派色の濃いのが朝日ジャーナル系にいたようですね。これが1970年代の朝日新聞の特徴ですね。極左集団といわれてもおかしくない朝日新聞の実態です。
    ところで、現在の朝日新聞は、大江健三郎氏のような非現実的空想社会主義者と、筑紫哲也氏のような反日アジテーターが共存しているようですね。共通するのは、親中・親韓で、日本をかの国に隷属させようと意図しているのは間違いありません。

    次回は、2000年以降の朝日新聞の思想性を観察してみたいと思います。

    赤峰 本日も戦後思想界の評論をされている識者からのお言葉をいただきます。

    ・終戦直後の国民は、敗戦により、宗教的、思想的なバックボーンさえも喪失していました。
    ・精神的支柱、つまり心の支えになるものは、「天皇」であったり、「古来からの宗教観」であったり、「道徳観」であったのですが、敗戦とともにいったん否定されてしまいました。
    ・それにとって代わるものを強く求めていた時代でもあったわけです。
    ・そこにあらわれてきたのが共産主義思想であって、それに安易に飛びついたのが朝日新聞社です。
    ・朝日新聞社は、共産主義思想が素晴らしいからではなく、「敗戦の辛さを誰かのせいにしたい」という単純な考えからだったのです。
    ・すでに最初の動機自体が、屈折した考えからスタートしていたのです。
    ・屈折した人々が戦後の日本の闇を形成したと言えます。

    つづく

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