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【1476404】関関同立ついて

投稿者: さつまいも   (ID:Ju8/wln/.Fw) 投稿日時:2009年 10月 22日 18:44

自分は今から二十五年ほど前に、中学受験をした者です。

一生懸命勉強したにも関わらず、憧れの関関同立にはとても手が届きませんでした。

しかし、このエデュを拝見させて頂きますと、あの頃よりは、かなり広き門となっているのかと思える内容をちらほらお見受け致します。
偏差値的にはどうなんでしょうか。
あの頃とはだいぶ違いますでしょうか。
そうであれば、我が子は親と同じような能力だとしても、入学は夢ではないと淡い期待を抱いても大丈夫でしょうか。

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  1. 【1476454】 投稿者: ???  (ID:b8WIp9FmG3o) 投稿日時:2009年 10月 22日 19:21

    中学の付属や併設の話?それとも大学の話?

  2. 【1476497】 投稿者: どちら方面の私立中学でしょうか?  (ID:yD2.6kSnfRI) 投稿日時:2009年 10月 22日 19:55

    その世代のお方なら大学受験時は18歳人口(大学受験人口)が過去最高に多い時代で競争が大変激しく、学部も今のように増えていないので定員も今より少なく非常に狭き門。私大の偏差値もうなぎ昇りで「関関同立」はかなりの難関でした。今ならすっと入れるような受験生でも当時は「産近甲龍」に入れたら恩の字といったところでしょうか?関東地区でも例えば東大受験生が早慶以下の私大(MARCHのみならず日東駒専までも)を平気で併願して週刊誌の話題になったりする時代でしたからね。

  3. 【1476589】 投稿者: 同世代  (ID:T2Xh.zbLqrw) 投稿日時:2009年 10月 22日 20:57

    どちら方面の私立中学でしょうか?さんのおっしゃる通りですね。
    第二次ベビーブーム、一学年200万人以上(現在の2倍近く)いた世代。
    私もスレ主さんと同じくその世代、同じ頃に中学受験しました。


    私は、中学から某進学校(男子校)に入学しました。
    塾で同じ上位クラスの私よりほんの少し下の成績の友人たちが、
    KKDRを受験し入学していきました(もちろん残念組もいましたが)。
    現在、子供の塾の偏差値表を見ると、両校の偏差値は10程度も差があり、
    そのことに大変驚きました。
    今は、2次試験を行うKKDR附属校もあるようで、それも吃驚ですし、
    他校にコースを作り生徒確保にまで努めているKKDR大学もある。
    当時は、KKDRの附属校のほとんど(全部?)が統一日にしか入試を行いませんでしたし、
    またほとんどの子供は第一志望校を統一日に受験しました(奈良以外)。
    そんな状況下、友人の受験した附属校の倍率は確か4~5倍で、
    確かにかなり難関だったと思います。


    この世代の者が今の受験情報を知ると、
    随分時代が変わったものだと、しみじみ感じてしまいます…。

  4. 【1476630】 投稿者: さつまいも  (ID:Ju8/wln/.Fw) 投稿日時:2009年 10月 22日 21:24

    ご返事くださいました皆様ありがとうございます。

    そして説明不足もありましたようで、すみません。

    今は大学ではなく、中学の話をさせていただいてます。

    子供はまだ幼いので受験はまだまだですが、将来は、親の憧れていた同志社への入学は可能だろうかと思いまして、スレ立てさせていただいたのです。

    やはり、私の世代とは大きく変わっていたのですね。

    確かに、現在は地元で、よく出来る子が受験したという話を聞けば、洛南や洛星ばかりです。

    もしや、今洛南や洛星レベルを受験しているお子様達が、自分の世代に受験していたならば、関関同立を受験されているのでしょうか。(附属や進学校ということを分けて考えるなら)

    自分の子は、やはり親譲りで能力はあまり期待できるレベルではないと思いますが、もしも同志社に入ることが出来たらうれしいです。

  5. 【1476745】 投稿者: じゃがいも  (ID:xCJ1yz0JpN6) 投稿日時:2009年 10月 22日 22:39

     25年前なんて中学受験はまだ少数。京都では洛星1校が中高一貫で京大に最短の時代。ようやく洛南高附も認められ始めた頃。同志社はエエしのボンボンが行く学校で進学校でもなく立命館は影が薄かった。高校は小学区制だったが、京都の小学生は公立中から公立高がまだ当然の時代。
     今は出来る京都の小学生は普通に中学受験をする時代。同志社中も昔のようにボンボンだけの学校ではなく偏差値で輪切りされた子供が受験する。その意味ではそれなりに優秀だし難しい。

  6. 【1476824】 投稿者: んっ?  (ID:FczkwYAsupY) 投稿日時:2009年 10月 22日 23:34

    25年前は洛南高校はあったが、洛南高附って中学はまだなかったのでは?
    立命館も男子校だったし、灘以外はあんまり府県を跨いでの受験ってなかったかも。
    愛光やラサールは少数いたけど。
    女子は同志社共学がトップだったでしょ?
    同志社香里も男子校だった。同志社国際には中学がなかった。
    今とは全然違ってた。

  7. 【1476885】 投稿者: そうそう  (ID:T2Xh.zbLqrw) 投稿日時:2009年 10月 23日 00:27

    そうそう、「25年前は洛南高附も認められ始めた頃…」って変。
    25年前と言えば、洛南附中は初年度か開校前くらい。
    それに、京都で中学受験はまだ少数…ってことは全然無かった。
    成基学園は府内各所にあり、某教室では小6の中受クラスだけで各コース合計10クラス程あったし、
    塾生の数は、おそらく今よりもずっと多かった。
    割合は今よりも低かったかもしれないが、そもそも子供の数自体が非常に多かったし、
    京都(東京も然り。分かる人には分かるでしょう)という土地柄だからこそ、
    それなりに中学受験者が存在した。
    浜希馬渕はまだ無かったけれど、中小規模の中受塾は非常にたくさんあった。
    日能研は既に京都に進出しており、市内で中学受験する人はもちろんちっとも珍しくなかった。
    今より学校数が少なかった分、残念組の数も当然多く、
    周りに内緒で受験して、失敗して公立に進学する人が多数いた。
    前出の方は、受験する人があまりいらっしゃらない環境におられたか、
    ただご存じないだけでしょう。
    そして、同志社は今同様、進学校では無いけれど大学は外部受験する人が相当数いた。
    女子はトップ層がよく進学していた。京教附属にも。
    岩倉(当時は通うのが不便だった)より立地条件がいい同志社女子に進学する優秀層も一部いた。
    親が女子校を選ぶという傾向も、今よりはあった。京女やダム女や聖母も人気があった。
    やはりいろいろな面で、現在とは全然違っていた。

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