女子美の中高大連携授業
◆愛知万博のおもひで
私はああ、やってたね、くらいの記憶。
ところが、当時5歳以下だったはずのウチの20代スタッフ、行った子はみんな覚えてるって。
当時2歳だった子までも「◯◯館で食べた◯◯がー」とか。正気?私、ほぼそんな頃の記憶ないけど?
愛知万博に行かれた地元の皆様、20年前のおもひでをシェアしませう。
私のリニューアル案にある「映え」や「没入」という要素。それは、見栄えを競うためではなく、問いを包む演出としての器と考えています。
人を惹きつけるためにラグジュアリーな装飾を使いながらも、その奥には
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?
ゴーギャンの描いた傑作に準えた、人間の根源に関わる問いがあるのだと思うのです。
ラグジュアリーの語源―“luxus(逸脱)”や“luxuria(色欲)”が示すのは、単なる贅沢ではありません。
それは、人間が生き物として持つ欲望のカタチ。美しさや快楽に引かれる心は、私たちが機械ではなく血の通った存在である証拠です。
だからこそ、私の案は“見せるための仕掛け”にとどまりません。変身ブースの背後には「他人にどう見られたいか」という問いがあり、LED空間には「どんな世界で生きてみたいか」という欲望が宿っています。
ゴジラもエヴァも。巨大なるものに対する畏怖の念と敬い、これは神なる存在に対する憧憬でもあります。GODZILLAの中にはGODが、EVAも神が作りしAdamと Eveですから、根本的存在として、老若男女に訴求できる一つの偶像なのです。
盧舎那仏=奈良の大仏を眺めた奈良時代の民にも共通する、救い、信仰という純粋な感情の投影でもあるのです。
人は古来より大きなものに憧れ、それを見たい、触れたいと言う根源的な欲望を有しているのです。
つまり、これらは「未来になりきる」ための装置であって、人間の欲望と想像力に正面から向き合う試みなのです。愛知万博さんの思想とも通じる、“装いの中の本音”を私たちは手放していません。
一方、ただ流行語を寄せ集めた提案には、問いも矛盾も余白もない。ただ「映える」ことだけを追いかけて、どこに向かうのかは語られません。そこに「未来」はあるでしょうか?
人間であるとは、問うこと、迷うこと、そして演じること―。そう信じているからこそ、私たちは今も、自分の言葉で語ろうとしています。
賛同頂ける方はぜひ、あなたの言葉で思いをスレッドに書き込んでください。
>より戦略的に中国に追いつくには、制度設計を変える覚悟と、「まず飛ばす」社会的合意が欠かせない。
要は、中国では権力側と金持ちはやりたい放題、事故が起こっても力か金で解決できるのでは。一方で日本では法的責任が追及されるため簡単には行かないです(持たざる人や無敵の人は除く)。
再度になりますが、「そこじゃない」さんの投稿はAI文書の構造をそのまま貼りつけたもので、内容は整理されているように見えて本質からズレています。少しアタマを整理したので、「文句を言うだけで具体策がない」といったブーメランにならないよう、改めて整理します。
確かに要素技術や個別企業の例を並べることはできます。でも、いま我々が直面しているのは「飛ばす技術の問題」ではなく、「飛ばすという意思決定ができない国の構造」です。そしてその構造を生んだ根は深い。
あなたの投稿が見落としているのは、日本がすでに同じ失敗を繰り返しているという事実。そう、MRJ(現スペースジェット)です。
◆MRJという「過剰な完璧主義」の墓標
MRJは技術的には優れていました。しかし型式証明取得をめぐってFAAとの調整が難航し、スケジュールは何度も後ろ倒し。そこに見えたのは、「完成度100%を目指すあまり、結局飛ばせなかった」という日本の病理です。
私の知人に重工の航空、軍事部門関係者がいますが(彼は今、日、英、伊3カ国共同開発の次期戦闘機開発でイギリスにいますが)、彼によれば、MRJ開発チームはFAA経験者などを高額報酬で雇ったものの、実際には肝心の型式証明プロセスではほとんど役に立たず、時間と資金だけが浪費されたとのこと。
冷静に考えれば当然です。ボーイングからすれば、三菱重工が本当に飛ばすようなことになれば「競合」になるわけで、本気で協力するインセンティブがない。
これは、当時から一部には指摘されていたように
見えていたはずの矛盾を、見て見ぬふりをして突き進んだ当然の結果といえます。「飛ばす」という同じ畑で明確な失敗という教訓が既に我が国にはあるのです。そして我々は、その失敗を「過去のこと」として処理してしまった。何も変えずに。
◆ ホンダジェットはなぜ飛んだのか
逆に成功体験も我が国に既にあるのです。ホンダです。ホンダは違いました。彼らは当初から、ボーイングやエアバスとは競合しないニッチ市場を狙い、ビジネスジェットという土俵に打って出た。
しかも開発拠点を米国に構え、FAAと密に連携しながら制度側のロジックを学習し、最終的に「空を飛ぶ」ことに成功した。これは国の中で制度を変えようとして変えられなかったMRJとは正反対のアプローチです。
「制度に合わせて技術を縮める」のではなく、「制度の外で飛ばして持ち帰る」
ホンダは、日本の弱点を逆手に取った。この対比に、日本のeVTOLの活路がある。
◆ では日本のeVTOLはどうすれば勝てるのか
①空の「制度主権」に依存しない
型式証明や運航認可をすべて日本国内で完結させようとするのは限界があります。むしろ、米国(FAA)やシンガポールなど制度の先進国と連携し、国外で先に型式を取る。これはホンダと同じ方法です。
②国内では「実証」より「需要創出」を
万博での実証は必要ですが、社会実装の鍵は「体験者の熱狂」です。自治体ごとに観光・救急・物流など目的を絞った用途特化型の導入を急ぎ、「飛ぶ日常」を作る必要がある。これは極めて重要です。熱狂なしに、成功のビジョンは描けません。
③戦略を「ゼネコン発」から「デジタル都市発」へ
空飛ぶクルマの都市インフラ化は、従来の都市開発スキーム(建設業・ゼネコン主導)では回りません。必要なのは自治体と通信・MaaSプラットフォーマーが中核となった都市OS戦略。中国が広州でやったのはまさにこれです。
④日本流「安全志向」を逆手に取る
「慎重な国民性」は裏を返せば「安全ブランド」です。ならば海外で先に飛ばした実績を持ち帰り、日本国内では「最も安全なeVTOLブランド」として売り出すのが最も合理的なルートです。ホンダジェットもその方法で販売に成功しています。
要は。。。
◆完成形”ではなく「市場」を先に作れ
あなたの投稿が語る「中国は制度が柔軟だから進んでいる」という分析は間違ってはいません。しかし、それはあくまで「他山の石」。日本にそのまま輸入できるものではない。
日本がここで抜きん出るには(と言うか万博の緩いデモンストレーションを見ている限り前に出ようとという気がそもそもあると思えませんが)、日本社会の特性を反転利用する「戦略思考」が必須です。MRJとホンダの教訓を見れば、それは明らかです。
世界に「空を飛ぶ未来」が訪れる時、その一部をつくっていたと胸を張れるのか。いま問われているのは、そういう種類の話です。
技術の話はもういいんです。折角失敗も成功も我が国にある。これは先行する中国にない我が国の「強み」最大の「アドバンテージ」です。
問われているのは制度を動かす「戦略思考」と、それを現実に落とす「胆力」です。
胆力?いいえ、かつてこの国が「戦後日本」と呼ばれた時代には、確かにそれがあったはずです。海外のモノマネから今の地位に這い上がったかつての日本にも教訓がある、かつての失敗も成功も。活かせるもの全てを総動員するのがまさに「今」ではないでしょうか?
【追記】
◆「飛ぶ技術」ではなく、「飛ばす決断」が問われている
日本のeVTOL政策は、いまMRJ(現スペースジェット)のリロードになりかけています。
制度に技術を合わせて縮小再生産に陥るのか、それとも制度のほうを組み替える胆力を持てるのか。分岐点に立っていると思います。
技術屋のプライドに依存するだけでは、未来は開けません。
必要なのは「どこで、誰が、どう使い、何の価値を生むのか」という、社会側からの逆算思考です。
そこを詰めずに「飛行可能な機体」だけ揃えても、「飛ばない理由」ばかりが積み上がるだけです。
では、どうするか?
◆政策提言:未来を「先に飛ばす」ための5つの打ち手
① 国外制度とのデュアル認証戦略
FAAやEASAなど制度先進国と連携し、型式証明の取得を国内に限定しない。ホンダジェットが選んだのがこの道です。日本の制度が整うのを待つ必要はありません。
② 都市単位での用途特化型の導入
離島の救急搬送、観光地の空輸、都市部のVIP移送など、使途ごとに分けた導入モデルを自治体単位で走らせる。全国一律スキームは幻想。局地戦の積み上げが実装への近道です。
③ MaaSと連携した日常化
予約から搭乗までをスマホで完結させ、既存の交通アプリに「空路」という選択肢を追加するUXを整える。空飛ぶクルマを「特別な体験」から「いつもの移動」に変える鍵はここです。
④ 官主導ではなく、官民スプリット型の制度形成
国が制度を整えるのを待つのではなく、民間が先に走り、制度を後追いさせる。「制度で主導」から「実装による制度更新」へ。これは中国がすでに現実にやっていることでもあります。このベースの実装なくして、中国に追いつき、追い越すことは不可能です。
⑤ MRJの教訓をeVTOLに逆流適用する
完璧主義に固執せず、必要な技術は外から、使える制度は先にある場所から取り込む。「すべて自前」は敗北の教訓。むしろホンダ型の外部最適モデルを国家戦略の軸に据えるべきです。
◆日本は「勝てない技術開発」に、いつまで賭け続けるのか
もう、「勝っても飛べない技術」に何兆円も注ぎ込む時代ではありません。
問われているのは、「どうすれば飛ばせるか」という戦略思考です。
「失敗しないこと」を価値とする国家に、未来はありません。
中国は失敗を繰り返しながら飛ばし、事後的に制度を追いつかせてきました。
日本は失敗を恐れて止まり、「飛んでいたはずの未来」が目の前を通り過ぎていった。
だったら、逆手に取るしかない。
慎重な国民性は、安全性と信頼性というブランドに化ける。
国内で飛ばせないなら、まずは海外で飛ばして実績を持ち帰る。その逆輸入戦略こそが、日本型eVTOLの活路です。
理想の制度が整うのを待っても、空は飛べない。
飛べる場所で先に飛ばし、「空飛ぶ日常」を持ち帰る。
それが、この空を、未来の都市に変えるための現実解です。
そしてそれは、技術だけではなく、人間の決断と想像力が生む未来でもある。
「君と出会った奇跡が、この胸にあふれてる」。
空は、飛べるはずなのです。
― スピッツ『空も飛べるはず』
スレッド本文に立ち返ると。
うちのスタッフが覚えているという、20年前の愛知万博の記憶。
現在22歳の彼女が語る、2歳のときの思い出は「トルコ館でトルコアイスを食べた」という記憶。
また、今年26歳になる別のスタッフは、5〜6歳のときにヨルダン館で参加したという「死海浮遊体験プログラム」で、塩分濃度30%の塩水に浮かんだという体験を覚えているという。
だがここで、ふと思う。
私の専門分野である「脳」の見地から考えて、それは果たして本当に確かな「記憶」なのだろうか。
偽りの記憶(虚偽記憶)研究の第一人者であるエリザベス・ロフタス博士による、こんな有名な実験がある。
参加者には、幼少期に経験したという4つの出来事が提示された。
このうち3つは実際に起きた出来事だが、1つだけは完全な捏造─「5歳のとき、ショッピングモールで迷子になり、高齢の女性に助けられた」というエピソードだった。
被験者は、それぞれの出来事について覚えていることを書き出すように求められた。思い出せなければ「覚えていない」と答えればよい。
だがこの段階で、24人中7人が、実在しないはずの出来事を「覚えている」と回答した。
さらに1〜2週間後、同じ内容について再び詳細を尋ねるインタビューを行ったところ、偽の記憶は回を重ねるごとに「思い出される」ようになり、そのたびに記憶の鮮明度が増していくという結果が得られた。
この研究が示唆するのは、以下の2点だ。
・人は、実際には経験していない出来事を「記憶」として持ちうる
・そして、その虚偽記憶は、繰り返し思い出すことで、あたかも本当に体験したかのようにリアルになっていく
これまでの実験では、
「溺れて死にかけたがライフガードに助けられた」
「ディズニーランドでバッグス・バニーと握手した(※バッグス・バニーはユニバーサルスタジオのキャラクター)」
─といった「ありえないはずの記憶」が、被験者の中で「実在の体験」として構築されるケースが報告されている。
ロフタス博士の著書には、こんな実話もある。
米国で4つの裁判があり、いずれも女性側が勝訴した。
彼女たちはセラピストによって、虚偽の記憶を「思い出す」よう誘導されていた。
その中には「子どもの頃、牧師である父親から性的虐待を受け、2度堕胎した」という記憶を語った女性もいたが、医学的には妊娠経験がないことが証明されていた。
人間の記憶、特に子ども時代のような遠い過去の記憶は、他人からの働きかけで簡単に歪められる。
それどころか、そもそも体験していないはずの出来事ですら「思い出す」ことができる、というのが研究からの明確な結論だ。
おそらく我々の記憶の一部は、後になって触れた誰かの語り、エピソード、写真や動画のような「視覚化された素材」によって、リアリティを後付けされている。
それが虚偽か否かに関係なく、「ああ、これは自分の記憶だ」と思い込むほどに映像が鮮明であれば、それはもう「真実の記憶」として定着する。
本当に経験したことかどうかは、もはや重要ではないのかもしれない。
ウチのスタッフたちも、きっと何らかのかたちで、後から触れた家族の語りや、デジカメで撮られた鮮明な動画によって、現実には覚えていなかった記憶が「再構築」された可能性がある。
とはいえ、私が彼女たちに「それって虚偽記憶じゃないの?」などと、野暮なツッコミを入れるつもりはない。
現実として「真実の記憶」と断定できないように、「虚偽記憶」と断定することもまたできないのだから。
「へー、すごいね。」
この一言が、そんな場面における最適解なのだと思う。
「それ、本当に覚えてる?」
そう問われたとき、答えるのは脳ではなく、物語なのかもしれない。
その語り手は自分ではなく、物語自身である。




































