在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
60代からの黄金の10年
子育ても介護も終わり、夫はまだ働き、老後資金は用意できてる。
夫婦仲は良く旅行やランチに頻繁に行ってるし、私はジム通い。
この上なく恵まれている。
幸せだ。
なのに…少し満たされない気持ちも。
その理由は、愛する息子達が遠くに住み今後も地元に戻ってくることはないからかな。
孫達は、同じく遠くに住む嫁親の方が、お気に入り。それは仕方ない。
思った事をズケズケ言う姉に言われた。
そんなに旦那に依存して1人になったらどうするの?って。
そうなったら次男家族が住む土地に移住すると言ったら
「アンタみたいに いつも私に優しくして~もっと私を心配して~、なんて思ってる母親(姑)が近くに来たら迷惑やで!アハハ」だと。
次男夫婦は二人とも優しいのに。
(長男嫁には距離を置かれてるからムリ)
それにアンタの旦那、ちょっと吐き気が止まらないだけで救急車呼ぼうとしたり大袈裟で迷惑やで!
と夫の悪口まで言う姉。
それでも 優しい旦那が毎日、朝早くからバスと電車乗って働きに行ってくれる事に感謝しなさいよ、って。
やっぱり私は幸せなんだな。
60代の皆さんも黄金の10年を幸せに過ごしていますか?
気持ちを分かってくれてありがとうございます。
>赤ちゃんや幼い子をもっと抱きたいなという気持ちよくわかりますよ。
年に数回しか会えないとしばらく会えない間に孫は大きくなってて
すぐに、抱っこできる時期も過ぎてしまうんだろうな。
会ってもパパママと一緒にいるし、私は孫とゆっくり遊ぶ暇もない。
家に預かってお世話するようにはいかないのが寂しいです。
そのうち、ママのジィジバァバの話ばかりするんだろうな。
孫より自分の時間のが大切なんて強がって言っても本音では少しは孫のお世話してみたいです。
息子も嫁実家の息子になったような気がして、、たまにですが、無性に虚しく辛くなります。
夫婦仲良くはいいけど、、、嫁の両親が苦労してここまで育てた訳でもないのになんだかな、ですよ。
お嫁さんからは何も行動を起こさないからそのうち疎遠になりそうです。
私はまだ50で子供達は大学生なのですが、将来を想像してみると私も同じように感じそうです。
私自身を振り返ると、実家と義実家との距離感は、おっしゃるような感じで過ごしてきました。義実家って、積極的に行きたい場所ではないです。実家にはまあまあ行きましたが。
ただ、子供達が大学生になった今、子供達は自分の世界が忙しく、大学・バイト・遊び・デートと楽しく過ごしています。普段はほぼ祖父母のことなど意識していないと思います。あんなに幼い頃なついていた実家の祖父母に積極的に会いたがることはありません。
そして、そのことに実家の祖母(私の母)は不満のようです。若者の世界があることをわかってよ、と思いますが、母の気持ちもわかります。
親や祖父母が執着する気持ちほど、子供はなんとも思ってないので、あーだこーだ思うだけ無駄な気がします。
私も、息子が将来結婚して孫ができたら適度に会いたいです。でも、一般的にはお嫁さん実家にとられたように感じるものだろう、期待しすぎないようにしようと思ってます。
寂しいけどそんなものだろうと思います。
60も後半になれば、心の闇やらあると思うけど、それはみせずに
「私って幸せよね?」「私はこの上なく恵まれてるでしょ?」とアピールされてもね…
ただ、『鼻につく自慢』にしか思えないのよね
心に刺さらない言葉ならべてもね
人に認められないのはおかしい、そんなはずない、って
承認欲求が強いだけやん
かまってちゃんに共感なんてせんわ
アホらし
30代、完全に部外者の立場から。
「承認欲求」という言葉が人を動かす説明として有効だった時代は、おそらく一瞬しかなかった。
流行語として広まった瞬間、概念は矮小化し、万能のレッテルへと変質した。もはや説明でも観察でもない。他人を軽視するための定型句になった。
それでも、人はこうした粗雑なラベリングをやめない。なぜか?
それは、言葉に頼らなければ「自分の優位」を実感できないからだ。
特に、社会的な意味で「下り坂」を意識せざるを得ない年齢層では、なおさらそうだろう。
若い頃には自然に得られた自己肯定感を、言葉の勝利によって補うしかなくなる。だから彼らは、ラベルを貼る。「承認欲求」という単語も、そのために消費されているだけだ。
私は、これを単なる「浅さ」や「滑稽さ」として切って捨てるつもりはない。
それは人間の自然な姿だから。
私だって数十年後には同じ様な醜態を晒している事だろう。それが人のサガなのだろうから。
老いとは、失われるものを前にして、何かにすがることでもある。言葉遊びもまた、その一種にすぎない。
つまり、茶番とは、茶番を演じる者たちにとって「必要な儀式」「通過儀礼」なのだ。
それを冷笑するだけでは、何も理解したことにはならない。
私たちはただ、それを見抜いたうえで、静かに距離を取るだけでいい。
その良い観察の場、エデュって貴重。
「承認欲求」と並んで、もう一つ無批判に流通している言葉がある。それが「自己肯定感」だ。
この言葉もまた、最初は個人の内面的な力動を表すために生まれた。
しかし流行と共に、意味は変質した。今では、「自己肯定感が高い」「自己肯定感を育てる」といった言い回しが、ほぼ無意識のうちに使われている。
ここに潜む最大の問題は、「自己肯定感」という語が、自分自身を対象化し、操作すべきものと見なす 暗黙の前提を植え付けることにある。
まるで、自己という存在が、最初からどこかに「ある」かのように。そして、それを高めたり、育てたりできる 「操作対象」であるかのように。
だが、本来「自己」というものは、そんな単純な対象ではない。
そもそも人間の意識において「自己」とは、
・過去の記憶
・他者との関係性
・社会的役割
・身体感覚
そうした複雑な層が流動的に絡み合い、一時的に「私」と呼びうる像を結んでいるに過ぎない。流れる川から一瞬すくい取った “かたちを持たない水” のようなもの。
それを「肯定すれば良い」「感を高めれば良い」という単純なスローガンに還元すること。そこには、深い自己理解を拒む態度がある。
そして、それが流行語となる時、人は自らを「自己肯定感」の尺度で測ろうとするようになる。
評価基準を内在化し、常に自分を採点しながら生きる。
これは果たして「肯定」と呼べる代物なのか?
むしろ、自己への不安と操作の連続ではないのか。
だから私は思う。
「自己肯定感」という言葉もまた、一種の暗示だ。
それを信奉する限り、人は本当の意味で自分自身に近づくことはできない。
必要なのは、「自己肯定感を高めること」ではない。言葉の呪縛を見抜き、自らの経験を、言葉の外で、静かに引き受けることだ。
さらに蛇足ながら。
私が上述前文の文中、「自己肯定感」という言葉を「敢えて」用いてきたことについても触れておく。
つまりこれは無自覚な使用ではない。
あくまで、相手に伝わる最低限の共通言語として、便宜的に選んだに過ぎない。
本来、「自己肯定感」なる語は、先に述べた通り、対象化し操作する自己という幻想に荷担する危ういものだ。言葉を用いること自体が、時にその言葉の限界に加担してしまうという矛盾は、ここにもある。
敢えて蛇足を加えたのは、言葉の便利さに隠れた思考停止を、「自らも」免れていないという認識を明示しておくためだ。
この矛盾を自覚しないまま語ることこそ、最も避けるべきであると思うから。
「敢えて」の蛇足を。
スレ主さんが60代の皆さんと呼びかけているのに出てくる30代の方、他のスレにも時々出てきて長々と自論を述べ自分の解釈を語っていますね。 スレを白けさせているのを感じませんか? その後皆面倒になり書き込む人がいなくなります。スレを止めているのがわかりませんか。




































