在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
駅弁を使う人、地方を見下げてませんか?
地方国立大学は地方自治の基盤のため必要です。
ちゃんと民主主義を考えましょう。
大学受験スレには国立派、早慶派、アンチ国立、アンチ早慶などがカオスに入り混じっています。駅弁の言葉を好んで使うのはアンチ国立であって早慶派ではありません。アンチ国立の表現に問題があれば一部の早慶派あるいはカルトと呼んだら良いでしょう。
大宅壮一は「何でも批評する売文業者」であり、人気があった。
たとえば「日本の一番長い日」は半藤一利の力作だが、当初出版されたときクレジットされたのは序文だけしか書いていない大宅壮一であり、それだけベストセラー作家としての信頼があったともいえる。
堺利彦らの「売文社」と同様に大宅壮一ももともとマルクス主義運動に深くコミットした経歴がある。
「売文」の姿勢は徹底しており、なんらかの批評・批判を書くよう注文されたときは「で、どちらの味方をすればいいのかね?」と確認していたというエピソードもある。
急行が停まる駅には駅弁があり、駅弁を売る駅を降りるとそこには大学がある、といったことしか大宅は書いていない。
大宅自身は旧制第三高等学校から東京帝国大学中退という学歴だが、十代のころから一家の生活を支えるべく苦労した人で、旧制高等学校の出身者の一部に見られる懐古趣味はまったくない。
「駅弁大学」が本格的な罵倒語になったのは実は最近のことで、ネットスラングから新たな意味が付与されていった。
こういう歴史を踏まえることなく「駅弁」を安易に振り回す人たちの下劣さはまことに困ったものだと思う。
地方国立大学の運営費の国庫補助は毎年減らされており、事実上都道府県にそれらの負担はゆだねていくという方向になっている。
高等教育機関が「その場所にある」ということの重要性はおそらく首都圏居住者には実感できないだろう。
長すぎるので分けます。
>ただの罵倒語
そうなんですよ。
地方蔑視ですよね。
で、あるのに、
駅弁と喚く人物が、民主主義とも喚いてる。
これって欺瞞ですよ。
要は、単なる東京私大中華思想なんですよ。
それこそ、精神的に田舎者です。
駅弁。それは都市部にある名門私立大がB級、C級国立大を見下して言っている言葉です。多くは田舎にあるので、田舎国立大という意味もあります。
しかし、見下される原因は駅弁の側にあります。低レベルなのは自身の問題。駅弁とバカにされるのが嫌なら、せめて都市部の名門私立大と並ぶくらいのレベルになることです。
ふうん、二俣川さんってそういう軽薄な書き込みもしているんだ。
ありそうですけどね。
ぜひwikiで○○市や○○町の「年齢別人口分布」のグラフをみていただきたい。
日本全体は「しだいに下が狭まっていく変形つぼ型」のような形になっている。
これを市町村単位で見ると「18歳前後でがくんと落ち込むグラフ」と「その影響が特になく滑らかにつながるグラフ」の2通りしかないことに気がつかないだろうか?
もちろん「落ち込み」型は高校を卒業したときに行く場所がないという事実を表している。
かつては大きな工場でもあればとどまることもできたのだろうが、現在では「十分な雇用を提供できる大工場」の存在自体がほぼ絶滅している。
つまり「落ち込み」タイプは「高等教育機関のないところ」、滑らかなタイプは「大学のあるところ」と、ほとんど言い切ることができる。
地方国立大学を軽視して「なくてもよい」という暴論は、この現実をどうとらえているのだろうか?
「地方」や「地方のコミュニティ」は流れに任せて消滅してもよい、あるいは積極的に集約していくべきという考え方もないことはないが、罵倒語を使うだけの人たちにそういうビジョンは見えないなぁ。
今後の方向としては「地域のコミュニティカレッジの核として地方国立大学を再生させた上で、どこに住んでいても大学教育が受けられるようなネットワークを作っていく」ほうが、結局みんなが得をするような気がしませんか?




































