在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
なんで早慶ばかり各界で活躍する人材が目立つのか?
カンヌ国際映画祭で最高賞を受賞した是枝裕和監督も、過去2回受賞した今村昌平監督も早稲田文学部出身と言う事を思い出しました。
文学の世界でも実業の世界でも政治の世界でもマスコミ業界も、
目立つのは早慶出身者ばかりじゃないですか。
こういうと「人数が多いから」とトンマな事を言い出す方が必ずおりますが、
早慶VS旧帝に置き換えても歴然とした差があります。
どうしてこういう事になるのでしょうか?
あなたの主張にある「価値は評価する者の主観的な判断で異なる」という点については、確かに主観的な要素が含まれる場合もあることは否定しませんが、この議論において「価値」と「資格」を明確に分け、片方だけを認めるという主張自体が矛盾しています。
そもそも、ここでの「価値」は単なる主観的な評価ではなく、文科省が設定した共通基準を満たしているという客観的な事実に基づくものです。具体的には、データサイエンス教育における「リテラシーレベルの単位」は、文科省の認定を受ける際にカリキュラムや到達目標の達成度が審査され、一定の水準を満たすことが確認されています。この審査をクリアした単位は、どの大学であれ「文科省が求めるリテラシーレベルを達成した」という点で同等の価値を持ちます。
あなたは「すべての大学の卒業証書は、文科省が認定したという意味で同等の『資格』である」と認めていますが、これは「資格」そのものの価値を担保する基準が存在するからこそ言えることです。
同様に、データサイエンス教育における単位についても、文科省が一定の基準を設け、その基準に基づいて認定しているため、資格と同様に単位の価値を担保していると言えます。
矛盾点は、「資格」は同等と認めているのに、単位については同じ基準で認定されているにもかかわらず「価値は主観的」として同等性を否定している点です。もし本当に「資格」が同等だと認めるのであれば、それを構成する単位にも同じく一定の価値があると認めるべきです。資格の同等性を認めながら、単位の価値だけを「主観的」として否定することは論理的に一貫していません。
また、「偏屈な建前論者」や「偽善者」との表現も見られますが、議論において感情的なレッテル貼りは本質を見誤らせるだけです。この場で重要なのは、文科省が設定した基準を満たしている単位は、どの大学であろうと「基準を満たした」という点で客観的な価値を持つ、という事実です。
結論
あなたの主張する「価値は主観的である」という意見は、文科省が設けた客観的な基準による認定制度を無視しています。「資格」を同等と認めるのであれば、それを構成する単位の価値についても、一定の基準を満たしている限り同等性を認めるべきです。主観的な評価はあくまで個人や社会の見方であり、客観的な認定制度に基づく「価値」を否定する根拠にはなりません。
>しかし、文科省は単なる単位取得の認定だけではなく、段階ごとの教育水準を全国で均一に保つことを目的としていて、そのため、認定された単位は一定の難易度を担保しており、「比較できない」という論拠にはなりません。
この問題を、市場経済の原理の観点から考察していくと、文科省は「教育水準を全国で均一に保つことを目的」になどしていない。国立大学の法人化などにもみられるように、むしろ、規制を緩和して各大学の裁量権を拡大し、それぞれの大学が独自性を追求して差別化を行い、市場価値を高めることによって全体の研究力、教育力を高めていこうとしている。これは、均一化との決別なのです。
もちろん、市場には一定の基準を担保する規制や管理が必要だから、市場を監督する文科省は各大学に一定のガイドラインを課すが、本質的には各大学の裁量権の拡大による独自性の追求や差別化を促し、競争力を高めようとしている。
しかる間、あなたのやっていることは、背景における差別化や独自性を無視して、均一性に基づく安直な数値の比較で、早稲田大学のデータ科学への取り組みを査定しようとしている。
事実、早稲田のデータ科学認定制度における制度設計は、様々な点で他の国立大学とは大きく異なる。
制度設計が異なり、背景が異なる認定制度から生じた修了率、履修率などの数値を一概に比べることは、錯誤による誤解を前提にした悪質な誹謗中傷にすぎない。
そういう、誹謗中傷をやめなさいと言っているだけなのです。
要するに、異なる背景から生じた数値は比較できない。共通テストの平均点の比較とは全く違うのです。
あなたの主張は、いつも通り、またまた論理的に破綻しています。
「文科省が各大学の独自性を重視している」という点には同意しますが、それは文科省の設けた基準を否定するものではありません。
むしろ、文科省は基準を設けることで一定の水準を担保しつつ、その上で各大学が独自性を発揮することを奨励していて、この「基準を設けつつ、独自性を追求させる」という姿勢こそ、教育政策の根幹です。
あなたは「均一性との決別」と言っていますが、そもそも「一定の基準を担保するガイドラインを課す」と自ら述べている。
この「一定の基準」がまさに均一性の担保であり、文科省の認定はその基準を満たしていることを証明するものです。
各大学が独自の取り組みを行うことは当然ですが、それは「基準を満たした上での独自性」に過ぎません。「背景が異なるから数値を比較できない」という主張は、単に認定制度に基づく結果を不都合だから無視しようとしているに過ぎません。
また、文科省の認定は、あくまで全国共通の基準に基づいているため、「背景が異なる」という理由で数値を比較できないというのは誤りです。比較すべきは「基準を満たしているか否か」であり、認定制度が異なるといっても文科省が認定した段階ごとの水準を同じ基準で評価しています。したがって、修了率や履修率といった数値は比較可能です。背景の違いは、独自性を示す要素ではあっても、基準を満たした教育の質を測る障害にはなりません。
更に、「誹謗中傷をやめろ」という感情的な表現を用いて議論を終わらせようとしていますが、これは根拠のない主張です。
私が指摘しているのは、文科省が設定した基準を満たすことで単位の一定の価値が担保されているという事実であり、それに基づく議論です。「異なる背景」を盾に数値を無効化する主張こそ、不当な議論のすり替えです。
【結論】
文科省は、教育の一定水準を全国で担保するための基準を設けています。各大学はその基準を満たした上で独自性を追求し、差別化を図っています。あなたの言う「背景の違い」は、基準を満たしている前提で語られるべきものであり、その違いを理由に基準を無視することはできません。
「背景が違うから数値は比較できない」という主張は、基準を満たした上での評価という文科省の意図を理解していない、または意図的に無視したものです。
本質的な議論をするならば、背景の違いを尊重しつつ、同一基準に基づいた結果を冷静に比較・評価すべきです。「誹謗中傷」と感情論に訴えるのではなく、客観的事実に基づく議論をすべきです。
数少ない事例で全体を語る、全体の傾向がそうだから個別も必ずそう、都合のいいデータを見つけるとはしゃいで貼り付けるはエデユの国立信者の専売特許でしょう。
それに目をつぶって「文系の議論」とか言うのは、あなたが単に私立、特に早稲田、慶応に特別な感情があるから。本当に始末が悪い。
違うというなら、あなたが過去に国立信者のおかしな理屈に反論したことがある?
ないでしょう?
あなたは感情論にそれに合致した理屈をつけているだけだから。
だから最後に言っていることは同じ。
①DSカリキュラムのエキスパートレベルで、旧帝大が拠点校なのも事実
②地方国立大学に比べて「分母を学生数、履修者数」とどちらにしても、早稲田大学の修了率が地方国立大学の7分の1程度なのも事実
③早慶どちらの教授も、国立大学生の比較し早慶生の数学力が劣ることを認めている事実
④早慶入学後の講座には、高校数学レベル不要で手取り足取り教えてくれる講座がある事実
事実に基づいた投稿です。
一方、「早稲田のDSカリキュラムは特別で、国立大学のそれより上」のエビデンスは、結局出てきませんでした。
思い込みで「早稲田の方が上」と言うから、エビデンス不要の議論「文系の議論」と指摘しているのです。




































