在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
地方国立という侮蔑的呼称に含まれるのはどの大学まで?
よく地方国立はレベルが低いとか終わってるとか就活力が低いとか、侮蔑的な意味合いで使われることが多いですが、ぶっちゃけ地方国立に含まれるのはどのあたりの大学までなのでしょうか?
旧帝以下は文句なく含まれるのだとは思うのですが、文脈によっては九大北大あたりまで含まれたり、場合によっては京大も含まれるのでしょうか?
学術研究の話をするなら、肩書の有無よりも、制度の側が研究という営みをどう位置付けているかが本質だと思うな。
博士号を持つかどうかは象徴に過ぎない。問題は行政が研究の時間構造と評価軸を自分の側に取り込めていない点にあるのだと思う。
研究は数値化しやすい短期成果で動かないのに、政策は常に可視化と即効性を求める。
この矛盾と時間軸のズレを埋める設計をせず、個々の官僚の学歴に話を寄せてしまうと、構造そのものが見えなくなる。
博士号の有無は入口の指標に過ぎなくて、研究の生態系を理解する制度の方を整えなければ、誰が意思決定をしても同じ摩擦が生まれるだけ。
本当に必要なのは、研究者を制度側にどう組み込み、行政の意思決定と研究の知をどう循環させるかという設計の方なんだと思う。
個々の学位を論じても、構造が変わらない限り、現場には知の摩耗だけが残るだけのお話。
学術研究の未来を決めるのは人材の肩書ではなく、知の扱い方そのものだと思う。
研究費を競争的資金にしたことで日本の研究は激しく凋落した.理由は4つ.
まず申請と審査で膨大な時間と労力が使われ,採択率がよくて3割くらいなので,7割は無駄になっている.この時間は本来は研究に使われるべき時間.
次に,そもそも審査は機能しない.審査員も優秀な研究者だが,真にイノベーティブな研究はわからない.今年ノーベル賞をとったお二人もそうおっしゃっている.
また,無駄な研究費の重複が起きている.採択率が低いので,個々の研究者は複数のファンドに応募し,複数当たることがある.これで他に回らない.
最後に,間接経費という仕組みが害悪.このせいで,研究内容と関係なく,多額の研究費を持ってくる研究者が「良い研究者」になり,基礎研究,理論研究は壊滅した.また,必要なくても無駄に大型の研究費に応募するので,本当に必要なところに回らなくなった.
いま、日本の高等教育は「学統の継承」や「知の普及」といった社会的使命を果たすための百年の大計を、十分に築けていないのではないでしょうか。
私の所属大学でも、一時的な人員減少というだけの理由で、国立大学にもかかわらず法学専攻が廃止されました。研究費は十数年前の20万円から、現在では5万円へと激減し、学長・副学長でさえ専門外の学問を「無用の長物」と断じる状況です。これこそ、まさに学術基盤の弱体化を象徴する事態と言えます。
こうした状態で、隣国が二十年前の五倍もの研究投資を行う中、果たして日本が学問の競争力を保てるのでしょうか。
学統の継承が途切れるとき、失われるのは一つの専攻ではなく、社会が長期で自らを更新するための回路そのものだと思う。短期の人員減少に合わせて法学専攻を切るという判断は、研究の厚みや知の系譜を時間軸で見ない発想で、大学という装置が最低限守るべき基盤を自ら削ってしまっている。研究費の縮小も同じで、数字が減ったという現象ではなく、再生産されるはずの知が制度的に途絶えつつあるという構造の方が深刻。
隣国が投資規模を五倍にしたこと自体よりも、彼らが学術を国家の中長期的な競争力の中核と位置付けている点がポイントで、日本がそこを戦略として据えられていないことの方が危うい。研究というのは、今日の成果を取りに行く営みではなく、二十年後の社会が依拠する地盤を静かに積み上げる作業で、ここを削り続ければ、競争力の議論をする以前に、競争そのものに立てなくなる。
学術は即効性が薄いからこそ、削るときは一瞬、戻すときは何十年という非対称が生まれる。日本の問題は、まさにこの非対称に無自覚なまま制度を細らせてきたところ。いま問われているのは、研究者個人の努力ではなく、社会として知の回路をどう再構築するかという設計の方だと思う。
国の研究開発力、技術力を上げるには、国立大学の充実が急務です。
国立大学の学費値上げは、全く逆の発想です。
本来ならば、国立大学は授業料無償化の方向に進むべきです。
国会議員は国立大学の学費値上げが、いかに国力を衰退させるのかがわかっていないと思います。
それとも、国力を強化するのは自分の利益とは関係ないと思っているのか。
または、利権が絡み、私大が衰退するのを、防ごうとしているのかです。
いずれにしても、国の技術力をどんどん上げていかなければいけないのに、全く逆の政策だと思います。
国立大学の充実が急務なのは自明として、学費だけを焦点にすると論点が浅くなる。問題の核心は、資金の入口ではなく、知が循環する回路そのものが細っている点にある。学費を無償化しても、研究費の基盤が痩せ、長期投資の制度設計が壊れたままなら、研究開発力は回復しない。
いま欠けているのは、大学を国家の中長期の地盤として扱う戦略そのものだと思う。隣国が何倍の投資を積んでいるかより、彼らが研究を国の競争力の中核に据えている事実の方が重い。ここを国家戦略として位置付けない限り、奨学金も学費も枝葉にしかならない。
国立大学の学費議論が空転するのは、そもそも研究という営みが何十年のスパンで社会を支えるという前提が政策側に共有されていないからだ。削るときは一瞬、戻すときは世代単位。その非対称への感覚が抜け落ちている限り、技術力の議論は表面だけをなぞることになる。
本当に問うべきは、個人の負担ではなく、知の再生産をどこまで国家として保証するかという設計だと思う。学費の是非は、その設計が整ったあとにしか意味を持たない。




































