在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
地方国立という侮蔑的呼称に含まれるのはどの大学まで?
よく地方国立はレベルが低いとか終わってるとか就活力が低いとか、侮蔑的な意味合いで使われることが多いですが、ぶっちゃけ地方国立に含まれるのはどのあたりの大学までなのでしょうか?
旧帝以下は文句なく含まれるのだとは思うのですが、文脈によっては九大北大あたりまで含まれたり、場合によっては京大も含まれるのでしょうか?
財務省幹部は結局のところ
文系出身者で締められていて
理系の人間がいないのが良くないと思う。理系の研究費が如何に大事か、国立大学、特に旧帝大理系の研究費を多くすることにどの様な意味があるのかがわかっていないのではないだろうか?
旧帝大ともあろうに余りにも研究費が少なすぎる。日本の未来を変える、日本の頭脳が集まる場所に何故予算をふんだんに注ぎ込まないのか?
予算さえあれば日本はもっともっと世界に轟く技術を生み出せる。
そこをちゃんと理解している財務省幹部はいるのだろうか?
文理が分断されていること自体が問題の核心で、財務省に理系がいないから判断が誤っているという指摘は順序が逆です。
文系という逃げ場を制度として用意してしまった結果、数学を避けてもエリートコースに乗れる仕組みが温存され、予算配分を担う層が科学技術を自分の地平の外側に置いたまま意思決定をしている。ここを変えない限り、誰を財務省に入れるかという表層の議論に終始するだけで構造は動かない。
文理を最初から分けない教育体系なら、統計、数理、データ構造、経済、法、技術、社会制度を一体として理解する人材が自然に生まれる。予算とは国家規模の数理最適化であって、技術投資は長期の複利構造を前提とする意思決定なのに、今はそれを扱う側が体系的に訓練されていない。理系軽視ではなく、そもそも全員が理系的素養を前提にした教育を受けていないところに問題がある。
旧帝大の研究費が枯れているのも、文理分断が生み出した世界観の欠落が根にあると思う。未来の技術基盤を作る研究は、短期の採算では測れない複利的リターンを国家にもたらすが、その思考すら共有されていない。
文系だから数学が分からない、理系だから社会制度が分からないという区分が続く限り、国家全体の認知能力が二分化されたままになり、どこに資源を投じるべきかという国家戦略が組み立てられない。
だから文理の再編が先で、財務省云々はその後の話です。文理という境界がある限り、同じ議論が永遠に繰り返されるだけで、決して解決しない。
「文理の分断こそ問題だ」と主張しているのに、
その問題を説明する時には、結局ずっと「文系 vs 理系」という分断構図に依存している。
「文系が数学を避けた」
「文系だから科学技術を理解していない」
「理系的素養がない層が予算配分をしている」
というように、論拠は全部「文系という集団の欠陥」に置かれている。
だが君は、その「文理で分ける発想こそ問題だ」と言っている。
なら、文系/理系という分類を使って原因を語る時点で矛盾している。
自分で否定した枠組みに頼らないと議論が成立しない時点で、論理構成が崩れている。
結局のところ、こういう 自分の主張の前提まで食い違う自己矛盾の文章 を平気で書いてしまうのは、基礎的な論理の訓練が欠けている証拠。
だからこそ、君みたいな論理破綻した文章を書く人間を減らすには、やっぱり数学の勉強が役立つ。
既存の枠組みを批判する時、その枠組みがどう作用しているかを説明する為に概念を一時的に用いるのは矛盾ではありません。
レンズの歪みを説明するために、そのレンズを一度通して見せるのと同じです。歪んだ像を示す行為は、レンズを肯定しているのではない。寧ろ、レンズを外すべき理由を明瞭にするために、最後に一度だけその歪みを可視化しているだけです。
文系と理系という境界線が制度に深く埋め込まれている以上、その線がどこで人材育成や予算配分を歪めているかを指摘するには、現行の線を一度なぞるしかありません。
問題は線が存在することそのものです。線を指さした瞬間に線を肯定したことになると考える方が、むしろ論理として飛躍しています。
文理分断を語る際に文理という語を使うことを論理矛盾とみなすのは、文章の階層構造を取り違えています。一次のレベルで現象を説明し、二次のレベルで構造を批判しているだけの話です。一次と二次を混同しているから矛盾に見えてしまう。
数学が必要なのは、まさにこの階層の切り分けの理解に関わるからです。私が言っているのはそういう事です。
自ら数学が弱点故に、相手に指摘して溜飲を下げるパラドクスもお見事です。
褒めていませんよ?
あと、不毛な水掛け論になる予感しかしませんので返信は不要。仮にされてもスルーします。
逃げたとでも論破してやったでもお好きにどうぞ。
研究能力の低下は大学教員に競争を促させようとのみして学生に競争させないのが根本的な原因。
国立大学の運営費を増やして教員数を増やし、大学数はまず2/3くらいにすることが必要。あと四則演算できない学生が入学できてることが問題。教員はそういった学生の対応で疲弊しているし、留年させようものなら親が怒鳴り込んできて、文科省に運営費を減らされる。
君の反論は、体裁こそ整えているが、結局「レンズ論」という例え話に逃げただけで、核心の論理矛盾は解消できていない。
まず前提として、君は
「文理という枠組みを使うこと自体が問題」
と主張している。これは一次でも二次でもなく、“そもそもその枠組みに依存すべきではない”という立場のはずだ。
にもかかわらず、
・文系は数学を避けた
・文系だから科学技術を理解していない
・文系だから予算配分を誤る
──というように、原因説明の軸が全部「文系という集団の性質」に帰着している。
批判している枠組みを“使わないと成立しない議論”をしている時点で前提が破綻している。
これは一次/二次の階層の問題ではなく、
君の主張そのものが自分の足場を食い破っている自己矛盾なんだよ。
「レンズの歪みを説明するためにレンズを通しただけ」という例えも的外れだ。
なぜなら、君がしているのは“レンズを一度通した”どころではなく、論拠のすべてをそのレンズに依存して構築しているから。
そのレンズがある前提を捨てるなら、君の議論は丸ごと崩れる。
つまり、君の言う階層構造の話なんて成立していない。
ただの「文系叩きのために文理枠組みを使っておきながら、都合のいいところだけ“その枠組みを批判している”と言い張っている」──それが実態。
そして最後に「返信不要、スルーする」と逃げ台詞で蓋をしたのも象徴的だ。
論理ではなく“態度”で議論を終わらせようとした時点で、自分の主張が耐えられないことを自白したのと同じ。
つまるところ、君の文章が矛盾していると言われる理由を、自分自身で完璧に実演してしまっているだけだよ。
ここで語られているのは制度論でも教育財政でもない。教員を痩せさせ、大学を疲弊させ、研究を細らせてきた文科行政そのものの構造。
数字遊びや学生批判に問題を転嫁する限り、議論は永遠に入口の手前で止まる。
国立の研究力が落ちた理由は単純で、裁量を削り、任期を増やし、運営費交付金を減らし続けたから。
教員数を増やすという話も、本気ならまず大学の分母を整理しなければ成り立たない。三分の二という数字に意味があるのではなく、国が背負える規模と密度に戻すことが本質。
そして、四則演算ができない学生が大学に流れ込むのは大学側の選抜ではなく、高校段階のカリキュラム設計と制度疲労の結果。
責任の所在をズラしたところで状況は変わらない。教員が疲れ果てているのは学生のせいではなく、制度のほころびを現場に押し付け続けたからです。
学術を支える仕組みの問題を個々の学生に背負わせると、議論は必ず浅くなります。構造を語れない者程、現場の弱い方へ負荷の源泉を求めたがるだけです。




































