女子美の中高大連携授業
地方国立という侮蔑的呼称に含まれるのはどの大学まで?
よく地方国立はレベルが低いとか終わってるとか就活力が低いとか、侮蔑的な意味合いで使われることが多いですが、ぶっちゃけ地方国立に含まれるのはどのあたりの大学までなのでしょうか?
旧帝以下は文句なく含まれるのだとは思うのですが、文脈によっては九大北大あたりまで含まれたり、場合によっては京大も含まれるのでしょうか?
話を少し整理します。
年内入試の中に難度の高い学力型が混ざっている、という事実自体は否定しません。ただ、それは制度全体の評価を覆す話ではありません。例外的に難しい方式があることと、選抜の原理が健全かどうかは別問題です。
倍率が高いことと、能力を適切に測れていることも同義ではありません。受験機会が早期に集中すれば倍率は上がりますが、それは需要の集中を示すだけで、評価の精度を保証しません。難しい問題を解かせれば良い、という話でもありません。
上位国公立や私大が年内比率を広げているのも、学力評価が洗練されたからではなく、人口減少と入試スケジュールの都合が主因です。制度が広がる理由と、制度が優れている理由は一致しない。この点がずっと混同されています。
結局のところ、方式が一般か年内かは本質ではありません。何を測り、どう合否を決め、その妥当性を外部が検証できるのか。ここが曖昧なままでは、倍率が高かろうが学力型だろうが、制度としての説得力は生まれません。
入試改革が進んでいるように見えて、実際には評価基準の説明責任だけが置き去りになっている。その構造を直視しない限り、方式の違いを並べても議論は前に進まないと思います。
共テが難化するという見立てから難関校を回避しているのでしょうか。しかし、難関校ほど共テの割合が低く二次勝負となります。
我が子は共テ:二次=1:4の大学を受験したので共テ対策を2週間しかせず二次試験対策に全振りしました。幸い共テが易化し得点差が付きにくかったため、二次全振りの効果絶大でした。
難化した場合は皆んな同じく苦しみます。だから、易化、難化は関係ないと思います。あと一ヶ月ですね。昨年度を思い出すと本当に大変でした。でも努力は裏切らないと思います。受験生頑張れ!
話が完全に個人の体験談に逃げています。
私は共テが難化するか易化するかの予想や、二次配分の戦略論をしていません。制度として何を測り、どこに重みを置き、その妥当性を外部が検証できるかという話です。そこに個別成功例を持ち込んでも、論点は一切前に進みません。
難化すれば皆同じ条件、というのも制度論としては成立しません。難度変動が影響しないのは、測っている能力が本当に一様な場合だけです。実際には、共テは処理速度や慣れへの依存が大きく、二次は大学ごとに測定対象が異なる。そこを全部ひっくるめて同条件と言ってしまうのは、評価設計を見ていない発言です。
また、二次全振りでうまくいったという話は、結果論としては理解できますが、それが制度の正当性を支える根拠にはなりません。たまたま適応できた家庭があったことと、その方式が普遍的に妥当かどうかは別問題です。
私が言っているのは、方式選択や配点比ではなく、評価基準の説明責任が制度として果たされていない点です。努力論や応援メッセージで覆い隠すと、議論は必ず感情論に流れます。
受験は大変です。その事実と、制度の精度を問うことは切り離して考えるべきです。そこを混同した瞬間、入試改革の議論は止まります。
体験で言うなら、私自身、センター直前の2ヶ月はほとんど寝た記憶がありません。非効率だと言われても、疑心暗鬼と恐怖で眠れないのだから仕方がない。今でも30代で不眠が続き、3時間ほどしか眠れませんが、物理的にあれ以上の努力は不可能でした。だから後悔は一切ありません。
兄は私の半分も勉強していなかったのを身近で見ていましたが、理III現役合格。私はそこまでして、現役でも仮面でも届かなかった。それでも悔いはありません。結果として、自分に最も合う大学に進学でき、結果として、理参照チャレンジの失敗も含めて今のビジネスにも直結しています。
努力は裏切らない。この言葉を精神論としてではなく、現実として私は体感しています。だからこそ、個々の努力や美談で制度の歪みを覆い隠すべきではない。努力が報われるためには、それを正しく測り、無駄にすり減らさない制度が必要だと思っています。
これね、親世代とは違って受験が本当に複雑で難しくなってるんですよ。
最もシンプルな「国立一本槍」ですら、WEB出願、中期後期の選定、宿の確保など、まあ大変です。
私立併願した人の話を聞くと、WEB出願時に志望動機を400字ほど書かせるところもあるとか。
自分たちの時は自分で出願できたが、今は親が付いて一緒にやってあげないと肝心の勉強に集中できなくなります。
知り合いは長男さんが一般入試で合格したあと「次の子は国立でも推薦を出させる。私立でもいいから年内に決めてもらう。もうムリ」と語ってました。
出願手続きが煩雑という話と、評価設計の妥当性は別問題です。
WEB出願や宿の確保が大変だから制度が歪んでいる、という因果は成立しません。それは運用負荷の話であって、何を測っているかという制度論ではない。
400字程度の志望動機が書けないことを過剰な負担として扱うのも違います。
その水準の文章作成は、アルバイトの面接でも、インターンのエントリーでも、社会に出れば普通に求められる。そこを親が肩代わりしないと回らないなら、問題は制度ではなく、そこまでの教育と自立の方です。
私が指摘しているのは、手続きが楽かどうかではありません。
その400字で何を評価し、どう合否に反映し、外部が検証できるのかが曖昧な点です。負担が重いか軽いかの話にすり替えると、本質は見えなくなります。
受験が大変なのは事実です。
しかし、大変だから早く決めたい、親が管理したい、という感情を制度正当化に使い始めた瞬間、評価は情緒に支配されます。そこを切り離せない限り、議論は前に進みません。
うちの子はそれこそ中3の時に志望大学を決め、高校では塾には行かずに志望大学の総合型選抜に必要な英検や提示できる資格取得・作品創りをし部活に勤しみ、高校の成績は普通でしたが一発で合格のコスパの良い受験でした。進学校で、偏差値を意識した先生方のアドバイスや周りの環境もありましたが自分のやりたいことに忠実に行動していましたね。今は情報が簡単に手に入れられますし、多角的に物事をみて自分にあった受験を選択すれば良いと思いますよ。それの良悪は自分次第。
ご家庭としては非常にうまく噛み合ったケースだと思います。
ただ、ここで重要なのは総合型がコスパ良く機能した理由が、制度そのものではなく、早期に目的設定ができ、環境と情報の質が揃っていた点にあることです。
今起きている混乱は、目的も準備も曖昧なまま総合型を万能解と誤認し、外部サービスに丸投げする層が増えていることにあります。
選択肢が増えたこと自体は良いですが、自己設計できない人にとっては、かえって難易度が上がっている。
結局、受験方式の優劣ではなく、自分で設計できるかどうか。
そこが分岐点ですね。




































