在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
MARCHより下の旧帝大に進学するメリット
今の若者が、地方国立ではなく、マーチにこぞって進学してしまうのを忸怩たる思いで見ています。
やはり地方に行くということは負けなのでしょうか?
子供の頃から将来は英語が出来ないと就職に困ると言われて、社会人になった後も30歳くらいまで英語を勉強していたけど、最近は仕事でもAI翻訳使ってまして、これで十分です。
AIの進展で語学のスキルはこれからどんどん価値が下がると思います。
特に文系だと語学を取ったらほとんどアドバンテージになる部分が無くなりますよね。
最後に残るのは人間性だけ、人に好かれる能力や世渡り能力とかかな。
私、ずっとそれ言ってます。
今年、従姉妹の家を訪ねてパリに行ったのですが、数年前に行った際にはつきっきりで案内してもらったり、行きつけのパトリック・ロジェやカホリさんの店に行くのも大変でしたが、今や新規の店でもガジェットですいすい。
フランス語は自慢じゃないですけどボンジュールとサヴァ?とセボン!だけしか使えません。
それで余裕ですから。
英語を全く話せない70代男性の友人が、長年の夢だったコッツウォルズでの半移住生活を実現しています。語学は本当に一切できませんが、相棒はAI翻訳とスマホアプリ。現地では浮世絵や錦鯉、日本建築など日本文化に関心を持つ人々が彼を歓迎し、あっという間に腹心の友と呼べるような存在もできたと。
もちろん彼は成功例でしょうし、老後の海外移住には失敗例も山ほどあると思います。ただ、そうした障壁の多くを乗り越えられるレベルで、今はテクノロジーが日進月歩で進化しています。「言葉ができないから…」というのは、正直もう過去の話で、今それを理由にためらうのは、進化に追いつけないことを納得させる言い訳に近い気がします。
多様な経験がお金でどうにかできる「経験」自体だと思うような浅はかな親子には内面的な成長につながる経験などできない。
経験とは、感じたり考えたりするための機会として教育的な意義がある。
やりました、行きました、だけではただの自慢話。
受験勉強に専念できて、苦しみは勉強だけ、などという生き方では何の経験も積めない。多少の理不尽や困難があってこそ、こそ本気の思考経験が積めたりするものだと思います。思考のための言語能力は幼い頃に育てる必要があるとは思いますが、本当に賢い子に育てたいなら、親があまりお膳立てや干渉をしないことです。大学受験かゴールでないというのは建前ではなく事実です。
書かれていることは本質に近いと思う。経験は消費ではなく思考の回路として蓄積されていくもので、外形的なイベントの多寡とは無関係だ。重要なのは、経験を意味づける内側の働きそのもので、その器を育てるのは幼少期からの言語環境と、親がどこまで手を放せるかという構えになる。
ただ、もう一段踏み込むと、個人の内的成長だけでは社会全体の知の厚みには繋がらない。どれだけ優れた経験や思考を持つ若者がいても、それらが接続される場や循環の回路がなければ、知は孤立点のままで終わる。親の過干渉が子の成長を妨げるのと同じように、国や組織の構造が知の流れを妨げると、どれだけ個が育っても社会的なアウトカムに転化しない。
受験をゴールにしないというのは個の問題だが、個で終わらせない仕組みをつくれるかどうかは社会の問題。両者が揃って初めて、経験が単なる思い出ではなく未来へ繋がる知になる。
どんな学校を出ていてもその先の就職で企業にとって有益かどうかは別
やって欲しい仕事を覚えてこなしてもらえるかが大事なので就職前のインターンで向いてるか否かを見極める必要もある
逆に学校の勉強では見えない意外な才能が役に立つ事もある
相性と才能が学歴より重視される場合もある
埼玉の市役所がオタクを雇ってアニメ・コミックとのコラボ企画とかやって貰ったら成功した話もある
うむ。
相性や才能が学歴の外側にある、という点自体は否定しません。ただ、その言い方はあまりにフラットで、現場で何が起きているかを殆ど掬えていないです。
埼玉市役所のヲタ採用が成功した話も、重要なのはヲタ故に成功したではなく、既存の行政組織では拾えなかった専門性が制度の外側に滲み出ていたという一点です。
あれは個人の特性が偶然役に立った美談ではなく、採用制度が扱える能力の解像度が低過ぎた結果として生まれた歪みの露呈に近い。
教育と雇用の接続がずれたまま放置されると、こういう偶発的な当たり事例だけが語られて、構造の問題が見えなくなる。学校の勉強では見えない才能が役に立つ、という言葉の背後には、寧ろ学校で可視化される能力の範囲が狭すぎるという制度側の失敗があるはずですよね?
それを個人属性の話に矮小化すると、制度全体の改善余地が消えてしまう。
企業側から見れば、人材の相性は確かに大きい。
が、それは学歴を否定する理由にはならないし、逆に学歴至上主義を正当化する材料にもならない。
重要なのは、学校が測っている能力と、現場が必要としている能力がどの程度重なっていて、どの部分が漏れているのかというマッピングです。
東大のような研究大学でも、職業大学でも、あるいは地方の行政機関でも。
結果全く同じ問題が起きる。
だって入力と出力のズレ、評価軸のズレがあんだもん。で、制度が可視化できない能力領域の広がり。
この三つを整えない限り、相性や才能という言葉はただの無責任な逃げ道になってしまう。
埼玉市役所の件だって、再現可能な制度設計に落とし込めるなら価値がありますが、現状は偶発的成功、ラッキー〜の域を出ていない。
つまり本題はそこではなく、教育制度と採用制度をどの粒度で接続し直すかという構造の話なんです。
相性も才能も否定しない。
ただし、そこを語るなら、組織が拾えなかった能力領域の制度的背景まで踏まえなければ、議論としては浅過ぎる。
論点は「学歴か才能か」ではなく、「制度がどの能力領域を測れていないのか」。
ここを外すと、いつまでも埼玉の美談のレベルから先に進めませんよ。




































