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【2616325】ミッションスクールの価値

投稿者: 無宗教   (ID:5JG99cwtXRE) 投稿日時:2012年 07月 13日 14:52

ミッションスクールは言うまでもなくキリスト教を信仰する人のために設立された学校です。

無宗教の人、仏教ほか他宗教の信者の人でミッションスクールに通わせている人に真意を
教えていただきたいと思います。
宗教を無視してまで通わせる価値には何があるのでしょうか?

矛盾を感じませんでしたか?
後ろめたさはありませんか?


キリスト教信者の方にとっては極めて自然な選択肢だと思いますので宗教論はご遠慮ください。

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  1. 【2617503】 投稿者: えーと  (ID:V9EJPHWRhUY) 投稿日時:2012年 07月 14日 16:22

    >横浜雙葉などはシスターは常駐してすらおらず、校長もたしかキリスト教信者では無いと聞いています。

    これは違います。

  2. 【2617564】 投稿者: 看板だけかもね。  (ID:6Mg.5V6CJHk) 投稿日時:2012年 07月 14日 17:53

    ミッションスクールだから何か特別な教育方針があると思わない方がいいですよ。看板だけって学校もあります。大津の中学のように隠蔽して、口を拭って知らん顔している学校もあるほどです。キリスト教の精神からは程遠い。イメージに騙されないように、ご注意くださいね。

  3. 【2617628】 投稿者: 開港・開校  (ID:854JQVFuf9M) 投稿日時:2012年 07月 14日 19:24

    >神奈川では、
    男子は栄光、聖光、サレジオ
    女子はフェリス、横浜雙葉、共立、湘南白百合、清泉…と、進学校はミッションスクール多いですが、何か理由があるのでしょうか?


    横浜の歴史と共にです。
    まず、フエリスが日本で始めてのミッション校として開校します。
    場所は山手ではなく、桜木町の紅葉坂。
    今、県立音楽堂などのある一角です。
    当時は山手地区には、日本人が立ち入ることが出来なかったので
    日本の学生に西洋式の授業・英語・体育・音楽を教えるために
    当時、幕府の施設が置かれた紅葉坂に開校。

    その後、フランスからサンモール会が来て
    孤児院を山手に開校・同時に私立小学校を開校。
    小学校が横浜フタバになり、孤児院はその後、高円寺→田園調布と移転。
    高円寺は光塩になり、田園調布は田園調布フタバに発展。

    山手にあった聖書印刷所から捜真が開校。
    のちに反町に移転。

    フエリスの卒業生と宣教師によって横浜共立が開校。
    同じように横浜英和が開校。

    湘南白百合は、九段の「夏の研修施設」が元になって戦前に開校。
    (横浜のミッションほど歴史はない)
    清泉は戦後、進駐軍の中でカトリック信者の軍人子弟のために
    開校。
    進駐軍が引き上げる際に、日本の修道会にすべてを寄付し、
    日本人向けに開校。
    (実はあまり歴史は古くない)

    カリタス、聖ヨゼフなどのカトリック校も戦後設立。

    プロテスタント4校(フエリス・捜真・横浜共立・横浜英和)は日本でも有数の歴史を誇る。
    横浜フタバも同様に日本のカトリック系学校の開祖と言える存在。

    男子校に関しては、栄光学園は戦国時代に
    イエズス会が隆盛を極めた地・その後多くの殉教者を出した日本の地に
    再び戻るという大きな夢を実現させたフラッグ校。

    ここは、イエズス会の大きな意義を持った学校。

  4. 【2617642】 投稿者: 開港・開校  (ID:854JQVFuf9M) 投稿日時:2012年 07月 14日 19:52

    ちなみに、
    スレ主さんの「信者のための学校」説をとると
    これらの横浜の伝統校は
    日本に存在できないはず~

    だって、フエリスが紅葉坂に開校したときは
    「ご禁制」が生きていたころ。
    ヨコフタの開校も「ご禁制」のころ。
    捜真と共立、横浜英和の開校のころも
    日本人で信者なんてほとんどいない。

    教会もあまりないから、プロテスタントは各会派が一緒に礼拝していたぐらい。
    それも99%外国人で、日本人の信者はほとんどいなかった。

    日本語の聖書の出版を行ったのが、捜真の元になった
    聖書印刷所。
    その前は日本語の聖書もなかったんだよ。

    戦国時代のイエズス会の出版物はご禁制時代に日本からは消えているし
    日本人が手にとることができるキリスト教の出版物は
    あっても英語か、フランス語だっただろうねー。

  5. 【2617711】 投稿者: 光塩は、  (ID:CJU29U6Uq2s) 投稿日時:2012年 07月 14日 21:22

    フランスが母体ではなかったのでは?
    本当に横浜からでした?

  6. 【2617733】 投稿者: 開港・開校  (ID:854JQVFuf9M) 投稿日時:2012年 07月 14日 21:39

    ヨコフタの孤児院が関東大震災で壊滅的奈な被害を受けて
    孤児達の安全を考えたサンモールが高円寺に移転。

    その後、東京市が孤児達の受け入れをサンモールに申し出る。

    日本の孤児は日本が責任を持つという申し出。

    サンモールはそれを受け入れ、孤児院を廃院。
    孤児を東京に引き渡す。
    跡地を光塩の母体修道会に売却(たしかスペイン系)
    しかし、光塩に売却後に
    サンモールの孤児達が地元小学校で酷いイジメにあい
    東京市の衣食住の設備も酷い状態であることが発覚。

    すぐにサンモールは孤児達を再び、引き取る。

    しかし、孤児院の地は売却済み。

    その為、大田区に小さな土地を購入し、孤児院を再建。
    戦前まで、衣食住・教育・裁縫などの職業訓練まで一貫して行う孤児院として運営。
    (イジメ事件が大きく影となり、孤児を外に出さない方針が貫かれた)

    第二次世界大戦が始まると、日本政府に接収され
    外国人修道士・修道女の収容施設として使われるようになる。
    (孤児達は日本政府に引き取られた模様)
    その間、飢餓状態から修道士、修道女が多く亡くなる
    (今はカトリック信者の平和巡礼地ともなっている)

    戦争が終了し、サンモールの手に戻ったが、
    孤児院は再開せず「田園調布フタバ学園」として再興。
    しかし、前身の孤児院の「外部との接触を避ける」方針の影響はあり
    小学校・中学校・高校と、こじんまりと途中募集なく過ごす学校となった。
    (昭和40年代、50年代には高校募集が若干名あり・偏差値はそれほど高くはなかった)

    こんな経緯です。

    詳しくはね。

  7. 【2617760】 投稿者: すごい!  (ID:/ZtNb0Y1kY2) 投稿日時:2012年 07月 14日 22:04

    開港、開校さん!

    すごい博学ですね!!勉強になりました。
    ありがとうございます。

  8. 【2617785】 投稿者: 空気みたいなもの  (ID:Synu1QqUGAM) 投稿日時:2012年 07月 14日 22:35

    ヨコですが、開港、開校さん、ご存知でしたら教えてください。


    栄光学園、聖光学院、サレジオ学院と、3校も男子カトリック一貫校があるのは全国でも神奈川県だけですよね?
    しかもいずれも難関進学校。どうしてなんでしょう?

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