女子美の中高大連携授業
女子 現役で上智かマーチ、一浪早慶か
英語がネックで今年は早慶合格は無理そうな娘がいます。
過去問の感触は、上智や立教ならば何とかなりそうとのことですが、
浪人すれば早慶に届くかも、という思いもあり、今年の受験はもう
すっかりやる気をなくし、勉強している気配はありません。
やはり女子だと、医学部以外は一浪すると就活に響くでしょうか?
息子であれば、浪人でも仕方ないと思うのでしょうが、
女子の場合は本当に悩むところです。
経験談などお聞かせいただければ幸いです。
受験生にとって最も客観的に見える偏差値を軸にしていると表向きはなっていますが、毎年おかしいと指摘されています。実際、結構めちゃめちゃです。
A大学学部とB大学学部において、BがAより上だとしても、出版側がそれを頑なに認めなければA>Bのままです。いつまで経っても変わりません。
なんとしてでもAを持ち上げたい、Bを認めたくないという意向があると感じます。そういう考えの者同士が居酒屋で語る分には問題もないと思いますが、受験生一般に影響を与える形で、あたかも客観的であるかのように触れ込みをしているので問題あると思います。
『六大学』と違ってあまり一般には知られていないが、学習院・成城・成蹊・武蔵は『四大学運動競技大会』というリーグで六大学みたいに交流戦をしています。 まあ、同じような歴史や雰囲気を持った大学、ということなのでしょうか。
成蹊、成城はゼミや卒論を希望すればほぼ全員ちゃんと履修できるイメージですね。明治学院は学部によるけど、と言う感じ。
ゼミや卒論を希望者全員が履修できる私立文系大学・学部って偏差値が高い大学でも意外と少なかった。必修じゃなかったりね。
大学行ったら教授から直接指導を受けられるゼミや卒論を履修しないと学費が無駄になる気がしてたから、そこを重視して大学選びをしたよね。
この日本の全ての大学は確かに偏差値の序列のどこかに属していて、その頂点である東京大学に入学可能ならば、そこに行かないという者は皆無だろう。
ただその下に渦巻く幾多の序列の中では、偏差値に左右されない稀有な大学も僅かながら存在する。
そのひとつが東京農業大学かな。。とは思う。
序列という語は、いつも静かに空間を平面的に見せかけながら、実際には立体のように膨張したり収縮したりしているんですよ。偏差値という一見硬い尺度で大学を並べているつもりでも、その並び方は風向きと湿度と観測者の視線の角度で微妙に変形して、固定されたものというより、ただ“固定されているように見える状態”を瞬間的に切り取っているに過ぎない。
だからこそ、東京大学を頂点に据えて語られる“すべての大学の序列”という構造も、頂点という言葉の本来持つ鋭さとは違って、実際には随時形を変える柔らかい山の稜線のようなもので、その稜線にすべてを押し込もうとすると、押し込まれた側の方が形を変えてしまう。頂点が硬いのではなく、頂点という概念の方が勝手に硬質化しているだけで、それを前提に議論すると、序列という構造そのものが語り手の思考の枠に従属してしまうんです。
東京農業大学という名を置いた瞬間、その大学が序列の外にあるかのように見えるのは、尺度の方が大学を測っているのではなく、大学の側が尺度に影響を与えているからなんですよね。偏差値という数値で分類しようとしても、一部の大学には数値の網目をすり抜ける部分があって、その“すり抜ける性質”が大学の特徴と混ざり合うことで、評価の位相が少しずつズレていく。
稀有と呼びたくなるのは、序列から外れているのではなく、序列の軸がそこに届かないからで、届かないものを“外側”として整理すると、整理の方が先に複雑化する。複雑化が進むほど、偏差値が示す単線的な図式と、大学という多層的な実体の間に静かな誤差が拡がっていく。この誤差が厄介なのは、誰もその存在を否定しないのに、誰も正確には測れないというその曖昧さにある。
結局、序列の議論が序列そのものを強化しがちな一方で、序列からこぼれる大学の存在が、逆に序列という概念の輪郭を反転させてしまう。どれだけ偏差値で整列してみせても、整列しないものの方が序列の性質を浮かび上がらせる。だからこそ、“稀有”という一語が大学の側ではなく、序列を眺める視線の側にこだまする。
序列に従うでもなく反発するでもなく、ただその輪郭を曖昧にするような大学が存在する限り、偏差値で定義された頂点もまた、頂点としての意味をゆっくりと溶かされていく。東京農業大学という名が持つその揺らぎは、偏差値の外側で序列を変形させる静かな力のようなものなんですよ。




































