女子美の中高大連携授業
上智って関東の関学
一般率の低さに腰抜かしました。まさか、30%台とは。
カトリック推薦と称して、中受偏差値30台40台の学校から指定校推薦がたくさんあったり、帰国枠が人数多かったり。
とにかく推薦だけで7割近くいるのに、評価だけ高いとか。もはや、関西学院なみじゃないですか?
獨協やSFCが一教科の軽量入試で偏差値あげてるとか、上智も同じですよね?
推薦がどうこうという話題になると、そもそも何を基準として語っているのかが一瞬で霧散してしまう構造があって、外形的に”可愛い”とか”爽やか”といった印象が作用しているように見える場面でも、その印象がどこから生じ、誰のどの判断過程に紛れ込んでいるのかは誰にも精密には特定できないまま、ある種の俗説だけが自己増殖していく。教員側の評価軸が客観的に開示されているわけでもなく、しかし誰もが何となく共通のイメージだけは持っていて、そのイメージが一度流通し始めると、実際の選抜プロセスと関係なく、“そういうもの”という空気が先に成立してしまう。
人当たりが良いという表現も、それがコミュニケーションの滑らかさを指しているのか、周囲との摩擦を生みにくい適応性を指しているのか、あるいは単に教員が扱いやすいと感じる性質なのか、その内実は層になっていて、どこまでが性格でどこからが印象で、どこで容姿が補正をかけてくるのか、判断の境界線が曖昧なまま語られる。しかも、“絶対先生は顔で選んでる”という決めつけのような語感も、統計的裏付けがあるわけでもなく、単一の事例や周囲の経験則が過剰に一般化されて成立しているだけで、それが誤解かどうかすら検証不能のまま流通してしまう。
さらに厄介なのは、選ばれた側が優遇されたのか、選ぶ側が印象に引きずられたのか、あるいはそもそも推薦という制度自体が”人柄”という曖昧な概念を評価項目に含んでいるのか、その三者が絡み合うことで、議論そのものがどの層を対象にしているのか分からなくなっていく点で、だからこそ全てが曖昧な言説のまま消費され、誰も真相に辿りつかない。
結果として”顔で選ばれる”という短い言葉の背後に、制度の不透明性、評価基準の多層性、印象形成の偏り、観察者の思い込み、経験則の一般化といった複数の力が同時に入り込み、どれもが決定的な論拠にならないという状態だけが残り、話題だけが不必要に膨張する。こうして議論の芯がどこにも定まらないまま、推薦の話はいつも宙を漂う。




































