女子美の中高大連携授業
弁護士目指すならどの大学がいいのですか?ロースクールや勉強法、社会での道のりについても教えてください
高校生の息子が司法試験に興味があるようです。
今年の大学受験志願者の動向をみていても法学部が人気あるようですね。
昔とちがいロースクール制度があってよくわかりせん。
予備試験とは何ですか?
ロースクールと大学の法学部はまた別ですか?
東大とか慶應が多いようですが他大にくらべ何かアドバンテージ・メリットがあったら教えてください。
大学入試まで勉強詰めだったものの入学後に目標がなくなって、司法試験を目指す人もいるようですね。
国家公務員や民間就職を目指しているのに司法試験を取ってしまおうという人もいるとか。
ただの勉強好きなのでしょうか?
医者の子供は医者が多いと聞きますが弁護士など司法試験合格者のかたのお子様も影響受けてるのでしょうか?
私はまったく司法試験とは無縁のものです。
検事になるのはまた違うのでしょうか?
司法試験合格後どのようなルートを通じて就職していくのでしょうか?
企業法務はどんな感じなのでしょうか?
長々とすみません。大学入学から社会に出て羽ばたいていくまでのことで何でもいいので情報教えてください。
現役の弁護士さんが書かれたように首都圏なら東大、一橋、早慶、中央のどこかの法学部に入って法律全般の勉強しながら、それぞれのロースクールめざしたら3人に一人はどこかに合格できる。
この上記ロースクールから本番試験になら、2人に一人はだいたい合格できる。
他にもいろいろルートはあるでしょうけど、これが近道だと思います。
失礼ながら、その程度のことは一般に周知の事柄。昨日今日の新参者ならいざ知らず、あなたほどのご常連になれば、もっと斬新な視点からのご高見があって然るべきである。しかも、そうお考えになる具体的な根拠―結果論あっても―すら示されていないではないか。
たしかに一般論で「東大、一橋、早慶、中央」との結論に異議はない。そこにわが母校も含まれている。だが、あなたはなにゆえにそういった大学をお勧めになるのであろうか。それぞれ詳しくご説明なさるべきだろう。われわれも、それを知りたいのだ。
また、だれもがそうした大学に縁あるわけでもあるまい。そうしたときに次善の策はなきものなのだろうか。私自身は学風や伝統、そして人脈等からしても、都内であれば「明治」や「日大」「法政」といった歴史的伝統有する旧制法律学校の沿革有する大学への進学も、将来の実務法曹の道を十分に可能にする場であると思われる※。実際にそれらご出身の方々も、在野法曹として幅広くご活躍されてきたとの経緯がある(たとえば、歴代『日弁連』会長をみよ)。
※研究の一環で、『日評』の「法律時報」や「法学セミナー」といった研究誌や学習誌のバックナンバー(含数十年以上も前の古いもの)を渉猟すると、それをあらためて確認することができる。そこで、明治や日大、法政といった大学の自校出身研究者らが堂々たる論陣を張っておられるからだ。
ただし、首都圏にあまた法学部あるなかで、そうした主要大学をあえてお勧めになる具体的な理由を―この機会にーお伺いできれば幸いである。多くの方のご参考になるのではあるまいか。
ちなみに私自身は『都立大』もよかったかな、とのちに感じたことがある。相対的に学費低廉※で、しかも教授陣に実力派が多かったからである。
※故沼田稲次郎総長は学生に対し日頃、「都民がその分を負担してくれているのだから、しっかり勉強しなさい」と諭していたそうな。
同じスレッドの中では、ハンドルネームを統一するのはエデュのルールですよ。
投稿のルールを一度お読みになっては?
どんなに偉そうなことを書いていても、掲示板の最低のルールが守れないようでは・・・ということになります。
ただ研究者委員が中心であった旧試時代とは異なり、現在は判検事、弁護士等の実務家委員が試験委員の中心であり、内容も事例問題が多い。その意味で、当該学者委員固有の学説(学理解釈)への配慮といった当時の要請は、相対的に軽くなったものといえよう。むしろ、現状は過剰な判例法理至上主義であるとさえ思われるのである。
当然に試験準備も異なり、昔のように定評ある基本書を何度も繰り返し精読し、その論理を頭にトレースするような学習法(基本書一冊主義)は過去のものになった。いや、むしろそうした学者の執筆した基本書さえ不要なのかもしれない。
学部のとき、先生からは「たとえどのように忙しくても365日間、休みなく1日最低60頁を読み続けなさい」、「睡眠時間はたっぷりとりなさい。但し、それ以外の時間はすべて勉強に」、さらには「楽は苦の種苦は楽の種、勉強するは飯の種」などとも聞かされてきた。はたして、現在の「法律書生」はいかに。
注 過去において、某有名法科大学院教授にして現職試験委員を兼担する者が、自己に関わる受験生らに対してだけ学内で「(予想問題による)答案練習」を行っていたとの疑惑を惹起したことがある。当然、それにつき公平性の観点はもとより法科大学院設置の理念に反する行為だとの強い批判が江湖から寄せられた。当然なことである。
試験勉強と研究志向のそれとは大きく異なっていた。
たとえば、研究の場合には複数の―立場の異なる―有力学者の概説書を読み比べ、比較の視点からその当否を検討することになる。すなわち、批判的な読み方に重点が置かれる。
他方で試験勉強では、定評ある概説書を一冊選び―前述のように―これを精読、修得するとの方法になる。このため、精緻な体系性有する刑法総論など50回以上繰り返し読み込んだなどの例も珍しくなかった。それゆえにまた、複数の本を併読することは、むしろ理解を混乱させる虞れあるゆえに避けるべきだと指導された。まずは基本書をしっかりと―「はしがき」「目次」から「奥付まで」―理解することが先決とされたのであった。
なぜなら、どの研究者もそれぞれ独自の見解を論述しているからである。それゆえに目次をコピーし、それを横目で確認しつつ常に体系性を意識することが求められた。その意味では、私も団藤重光先生の『刑法綱要』や『新刑事訴訟法綱要』などに当初、魅かれた。その精緻な体系的思考からしてする論理性についてである(かの三島由紀夫も東大在学中、それを絶賛したという)。むろん、そこにある構成要件論としての定型説に、権力の恣意的発動・行使から国民の自由を保障するとの趣旨があったことは当然である。
またゼミなどでの議論も両者は異なる。
研究では論点ごとにつき、各学説の妥当性を比較して論じ合うことになる。他方、試験勉強のそれでは主に通説や判例の立場から、当該論点につきいかに答案構成するかに重点がおかれた。他説は、基本書の著者の学説のより正確な理解のための補充的な役割に留め置かれたのである。




































