女子美の中高大連携授業
これが旧帝大の現実
今年の成人式での会話
理系ヲタク「ぼ、ぼ、ぼくは東北大学なんだよ」
周りの人たち「ふーん」(無関心)
ブランドスーツで固めた男「俺青学だぜ!!」(指定校推薦)
周りの人たち「すごい!!!○○君って、天才!!!中学から勉強出来たもんね」
理系ヲタク「……」(誰にも相手されずに帰宅する)
(続き)そうしたなか、文系出身者が駆逐されたのちの職場で、はたして理系の彼らだけは安泰だとなにゆえ保証できようか。賃金の中心課題が搾取の問題である限り、また賃金を受け取っている限り、それが高かろうと安かろうと、労働者は必ず搾取されている。その結果、たしかに資本の規模は大きくなり、資本家はますます富み、肥えていくことであろう。他方で、労働者はますます貧乏になっていく。あくなき利益追求に狂奔する資本家は、いずれ理系労働者をも不用な人物として排除を画策するのも確実。マルクスは、それも『資本論』第1部第7篇で詳しく説明している。
機械にしてもITにしても、今までと同等の仕事をより少人数でできるようにし、その余剰人員をより付加価値の高い仕事に就かせることだから、別の見方をすれば雇用の流動化を促進していることになるでしょ。そしてより付加価値の高い仕事についた人が新しい技術や仕組みや考えを生み出し、さらに既存の業務を駆逐していく。そのスパイラル的な繰り返しで人類は発展してきたんだと思うよ。もちろんそれについていけない人にはセーフティネットが必要だが、その繰り返しを止めたら人類は発展しなくなるよ。
>そんな理不尽なところに旧帝理系は行かない。
野口悠紀雄によれば、これからの理系はA、B、Cを重点化しなければならない。
所謂、AI、ブロックチェーン、クラウドだ。
それができておらず、相変わらず昔ながらの学問分野を踏襲しているのが旧帝を含む国立大学だ。
ちなみに野口悠紀雄は旧帝は農学部の地位が高すぎると批判している。
情報系が手薄なんですよ。
旧帝大の理系はそういうふうにできている。
要するに時代遅れなんです。
>資本家が技術を改良して労働の生産性を高めるのは、搾取率を高めるために他ならない。
絶対的剰余価値=搾取、というのは今ではマル経の研究者だってまじめに取り合っていませんよ。
『資本論』を「窮乏化論」として読むのは向坂逸郎で終わりです。
要するに頭が古い。
その「余剰人員をより付加価値の高い仕事に就かせ」ないのが資本家の手口とするのがマルクスの指摘であり、現在の日本での現実。なぜなら、より利潤率を高めるためにしてする賃金コスト削減のため。また、そのために財界は、低賃金で雇用できる外国人労働者解禁を国に迫ってきた。しかしその結果、日本の労働者の賃金水準が付随して低下することは必定であり、経済学での定説的見解でもある。
なお付言するに、技術革新は労働時間を短縮せず、むしろ延長する。しかも、技術革新と労働生産性の向上は、失業者を生み出す。それもマルクスが『資本論』第1部4.5.7篇で展開している。そして、今日の日本では「失業者」の裏の顔として、使用者が恣意的につくり出した労基法の適用除外(意図的な脱法・潜脱)をもくろむ多くの「(形式的)個人事業主」が存在する。また、大企業正社員クラブたる『連合』傘下の御用組合も、自己の利益保全のため、そうした差別的構造を黙認する(彼らまで常用雇用にすると、自分たちの賃金水準の低下要因になりかねないから)。
むしろ、そうした資本制社会の利益代弁者等の方が、「頭が古い」のではないか。あたかも「公式化」して、機械的にその是非を問うかのような。それに関し、たとえば黒田寛一は次のように述べる。私はこの点では、黒田に賛成だ。
「だから『資本論』として対象化されてあるものの単なる客観主義的解釈の平面にとどまってはならないこと、対象化されてあるところのものをばそれを対象化したところのもの・つまりマルクスからとらえかえす、したがってマルクスの立場にわが身をうつしいれて主体的に把握する、ということが大切になるわけです。叙述を整合的に解釈するための『視点』ではなく、マルクス自身の目が問題だということですね。19世紀イギリス産業資本主義の時代において、この産業資本主義の社会経済構造を分析し解明しようとしたマルクスの実践的な立場、彼の問題意識、彼の分析視角、彼が適用し駆使した方法、これがいかなるものであったか、ということを追求することが大切だということであります」『「資本論入門」』13頁。(こぶし書房、1989年)




































