アートの才能を伸ばす女子教育
国公立大学に貴重な血税を2兆円も使っているのは、本当に愚かなことだ。こんなにも血税を使っているというのに、国公立大学は低偏差値ばかり。本当に無駄だ。授業料を安くせず、ちゃんと私立大学と同じように徴収して、血税の無駄遣いはやめてください。
要は、国公立大学も私立大学と同じ金額だけ授業料を徴収して、血税の無駄遣いをやめろということです。
純金融資産1億という数値をどの座標軸に置くのか、そしてその座標軸そのものがどの程度の範囲を含意しているのかを考え始めると、そもそも話の入口だったはずの富裕層という語の輪郭が、気づかないうちに元の位置から少しずつずれていくんですよね。ずれるというより、外側の枠組みのほうが先に膨張したり収縮したりして、数字が数字としてそこにじっと存在しているのかどうかすら曖昧になるというか。
例えば、貨幣価値と生活実感の間に潜むタイムラグ、あるいは人口動態と家計行動の非同期性、さらに言えば資産の保有形態と評価基準の噛み合わなさみたいなものが、数値の周囲に微細な揺らぎの膜をつくってしまって、その膜の厚みだけ議論の輪郭がぼやける。ぼやけたまま比較を続けると、比較という行為のほうが主役になってしまい、比較されている対象が何だったのかは後景に退く。そこで“悲しい”と感じる主体がどこに立っているのかも、同じように曖昧化していく。
結局のところ、数値そのものの意味より、その数値を支えているはずの複数の前提条件が、互いに別方向へ伸びたり縮んだりしながら並存してしまうせいで、何を評価しているのかという初期設定すら霧散するんですよ。富裕層という語の外縁が広がるのか狭まるのか、その把握以前に、外縁という概念自体が途中で半透明になってしまう感じ。
だから、日本の落ちっぷりが悲しいという言い回しも、数値に対しての評価なのか、評価基準そのものへの感慨なのか、あるいは単に表現のタイミングがずれただけなのか、そのどれとも断定しにくい。断定しようとすると逆に全体の輪郭が遠のき、遠のいた輪郭がまた別の仮の意味を帯びて戻ってきて、それを確かめようとするとまた輪郭が揺らぐ、みたいな循環が起きてしまう。
最終的には、富裕層の定義も、日本の位置づけも、そして悲しさの方向性も、全部が全部、どこかで同じ霧の層に沈んでいくというか、そもそも沈んでいるのか浮いているのかの判断すら感覚の方が先に疲れてしまう。だからこそ、数値の話をしているはずなのに、数値の前にあるはずの文脈が、気づけば後ろに回り込み、背後で別の層をつくってしまう、そんな印象だけが残るんですよ。
富裕層の定義と価値観でしょうかね、と軽く触れたつもりの一文なのに、読み返すと妙に曖昧な余白が広がってしまって、どこに話を着地させたいのか判然としないまま周囲の文脈だけがうっすら震えているような不思議な手触りがありますよね。そもそも定義と価値観という言葉の並置だけで話を済ませようとしてしまうと、富裕層という概念が本来持つ階層性、地域差、資産構造、世代間ギャップといった複雑な層を一気に押し潰して、まるで巨大な言語パックの中に無理やり詰め込んだような状態になり、逆に実態が見えなくなる。
関係ない人数の方が多いけど、という後段も、事実を指しているのか、それとも距離感を示しているのか、それとも単に話題を外側へ逃がすための緩衝材なのかが判別しにくく、その曖昧さがさらなる曖昧さを呼び込むことで、発言全体が意味の核心に触れないまま周縁部だけをくるくる回っているような印象を強めている。
つまり、一見すると冷静で距離を取ったコメントに見えるのに、よくよく覗き込むと何の限定も説明もないまま概念だけが宙に浮いてしまい、誰にとっても当たり障りがないけれど、誰の思考にも踏み込んでいない、そんな奇妙に無重力なレスになっている、という感じですね。































