女子美の中高大連携授業
中学受験情報掲示板では英語教育を巡って揉めているが、数学や現代文の教育ほど重要なものはないと思う。
スレタイのとおりです。
M.Schelerによれば、社会形態に対応して知識が分類されるとする(支配知・教養知・救済知)。たとえば
1.科学知相当する支配知・手段知
2.古典知に相当する教養知
3.宗教的知識たる救済知
こうしたSchelerの人間観は、カトリック的世界観に基づく人間学を形成し、物質的歴史社会は人格的個人に、人格的個人は絶対的神に奉仕するという知識社会学を組み立てた。
そこで留意すべきは、現代の知識が科学知に偏重して、科学を手段として自然や人間を支配していることにある。だが、上述の教養知や救済知が人間に固有に発現し、Homo sapiensとしての統合された精神的存在であることを表すのであれば、そこに教養知の多彩な展開が期待でき、Humanitiesを発展せしめることであろう。とりわけアジアでは、インドでは救済知を、中国では教養知をそれぞれ尊重してきたとの歴史を想起すべきだ。換言すれば、人文学が”Human Science”と呼ばれなかったことの重要性に留意する必要がある。したがって、私自身も「古典知に相当する教養知」に関心を有してきた。
あれから基本的人権に関する我妻論文は2ページ読み進めただけですが、色々気になることが頭に浮かんできました。
我妻がワイマール憲法を引いて書くときの「協同體」はゲマインシャフトなのかどうか。また、論文の最後の方で言うそれは、和辻哲郎の「共同体」に否定的だから"協"の字を使うのか。あるいは三木清が構想した「東亜協同体論」が嫌いではないからそうしたのか。
あらかじめ決められた共通の尺度で評価されたものではなければ、単なる個人の私見の類に過ぎんよ。理論は現実の世界と合致することを何かしらの方法で証明して初めて意味を持つ。多くの人がそれとなく納得したからといって、それが必ずしも正しいとは限らない。
ヘーゲルに関する解説を読んだり彼の著作を少し読んだりしたが、ヘーゲルは、あの時代から後の世界大戦やグローバリズムの進行を、精神の自己展開で説明し、予言した、という感じはする。あの小泉義之や浅田彰でさえヘーゲルを批判しない。
どこまで行っても人文は、分類ごっこ、0か1かの極論、ただのレトリック。彼はその限界の中で楽しんでいるのだからほっておきましょう。現実を理解する、現実の中で何かを生み出すことはとうに放棄しているのだから。
とはいえ彼は、結果的に現実世界を肯定してしまう。なぜなら、その哲学の対象は「現実的」なるものであり、それは「理性的なるものは現実的であり、現実的なるものは理性的である」との命題において見ることができるからだ。そうするとこの命題は、現在の段階における諸制度や諸段階の永遠化、神聖化を肯定補強することを意味しまいか。しかしながら、弁証法とは事物の運動の法則であり、運動は内在的矛盾により生ずる否定性においてその本来の性格を有するもののはず。それゆえ彼の弁証法は、その保守性ゆえにかえって自己疎外に陥る。むしろ、かのメフィストが語った如く「すべて生起するものは没落しなければならぬ」との命題こそ、妥当であったと思われるのである。




































