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「永遠のライバル」関東上流江戸vs地方国公立
地方国公立は大東亜帝国よりも下という結論が出たようです。
では、関東上流江戸桜には学力や研究力などで勝てるのでしょうか?
関東上流江戸桜
関東学園大学・上武大学・流通経済大学・江戸川大学・桜美林大学
●地方国公立
広島大学・岡山大学・長崎大学・熊本大学・滋賀大学・静岡大学・山形大学・富山大学・山梨大学・和歌山大学・山口大学・佐賀大学・鳥取大学・秋田大学・琉球大学・島根大学などなど
発想が貧しい。
先日、NHKでやっていたが、岐阜市、北海道や岩手、高知や宮崎など、全国各地の図書館を特集したクロ現。
図書館の集客力に注目し、スーパーや遊び場なども併設した複合施設として生まれ変わらせる自治体、ビジネスパーソン支援や農家の応援といった、地域の課題解決に取り組む自治体。
石川県の図書館は年間119万人の来場者を集めている。岐阜市もおしゃべりOK、何もしなくても無料で楽しめる施設に変え、15万から135万人と10倍もの来館者を集めている。特に40歳以下の若者の利用が22倍と大幅に増えている。
来館した高齢者は、ここに来て喋るわけじゃないが、若い子たちを見るだけで若返ると。
子供から10代、20代が集う賑やかな空間に高齢者が普通にいる風景。
全世代が無理矢理じゃなく接続でき、地域を活性化できる施設が、国主導でなく作れると言う実例。
実際に私も行った事があるが、ローソンやスタバが併設、目の前の市役所にはこれまたオシャレで、天ぷら中華やら冷やしたぬきと言った、岐阜のB級ご当地グルメが食べられるオシャレなカフェレストランまである。
私が行った時には、そこで戦争、空襲の写真展示もされていたり、教育、社会勉強の場にもなっていた。
番組では更にローカルな岩手県紫波町の町営図書館も紹介されていた。ここで行われているコンセプトが農業支援。
農業の専門誌や土作りに関する書籍を蔵書。展示では地元農家のリアルな声や農業の魅力を発信。図書館の司書が取材を行う。農家の課題も聞き取って伝えている。
農家の声を発信、地域全体で共有する事で町民の気持ちが地元に向き、近隣都市じゃなく、地元の農家から買おうなど、着実に地域振興に貢献できている。
農家に取っても、図書館と言う信頼性の高い発信元から発信される情報で、様々な知が集い、課題解決への最適解に接続出来る確率上昇へ繋がると言う。
これに国からの交付金制度が活かされている。
図書館以外に市民交流センターなどの多機能型図書館などに対する支援。
既にこの支援で10年で100館を超える複合図書館が建設されている。
国はコンパクトシティ化を目指す中で、地域の賑わいを促進させる起爆剤として図書館に着目していて、現実に上記の様な成功例も出ている。
高知県佐川町では図書館のイベントから花壇の手入れまで住民が携わっている。
古く小さかった図書館をリニューアル。しかし蔵書を増やしてガワだけを綺麗にしただけではなく、みんなが集える場所に変えるため、ワークショップを繰り返し開催、住民と共に図書館を変えて作り上げていった。
図書館のお手伝いをする住民の高橋まなぶ(女性)さん、前は限られた人のことしか分からず、他のことには全く目が向いていなかった。それが図書館に関わる事で地域に目が向くようになったと。
これまで行ったことのなかった住民総会への参加、議会の傍聴に足を運ぶようになった。
地域の一員であると言う自覚ができ、自分にできる事をお返ししたいと言う気持ちになったそう。
高齢者にこう思わせるチカラが図書館にあるのだろう。
シビックプライド〜地域への誇りや愛着を図書館が喚起していく。
メガソーラー?ふる納?
そんな薄っぺらい地域振興を語っている時点で、現実も分かっていないし視座も射程も浅い。
石破さんの地方復興は着実に実りを出し始めている。
どこかの誰かに水を差されないと良い。
鉄道がなければ乗ってる大人の大半は
路線バスではなく自家用車(地元民)やタクシー(観光客)を選びます。
よく踏切の損失を語る人がいますが
どう考えても鉄道に乗ってる大人が自家用車に流れるほうがよほど渋滞はひどくなります。
田舎の踏切は開かずの踏切じゃないので
遮断など大した影響はありません。
踏切=横よりも、並走する道路=縦が渋滞するほうが遥かに悪質です。
踏切か鉄道かという話に寄せすぎです。
論点は交通手段の代替ではなく、街の構造と人の動線がどう設計されているか。踏切の損失を強調しても、本質はそこではない。自家用車が増えれば渋滞するのは当然で、それは議論の前提条件にすぎません。
もっともらしく事の顛末を語っているが、最初から最後まで客観性に乏しい自説の開陳に過ぎない
駅建設に反対のくだりや、渋滞に関してため息をついたなどと現実を直視せず経営者として失格ではないのかな
本来なら停車禁止の路面ペイントや、バス発車への協力を呼びかける標識設置などの働きかけを旗振って然るべきだろう
バス協会を事実上私物化して公的機関を巻き込んだ騒ぎの末がこれでは鹿児島の皆々が気の毒だわ
話をどこから組み立てるかで、景色って驚くほど姿を変えるんですよ。駅建設に反対したとか、ため息をついたとか、単線で繋いでいけばいかにも善悪の輪郭が浮かぶように見えるんだけれど、実際にはその線の両側に、誰も拾っていない文脈の堆積が何層もあって、たとえば協会の内部調整とか自治体との微妙な温度差とか、地元利用者の生活動線のねじれとか、そういう細部の重なりで物事はズレていく。
路面ペイント云々だって、外形としては”やればいい”の一語で片づくように思えて、実際には警察・道路管理者・事業者の三者調整で何度も空転し、しかもその裏で乗務員の勤務割や便数の再編に影響が出たりして、単純な合理だけでは踏み込めない領域のほうがむしろ支配的。誰が旗を振るかより、旗を振った瞬間にどこの利害が軋むか、その軋みをどの順番で吸収するか、そのためにどの程度の時間が必要か、そういう“水面下の粘度”みたいなものが、最終的に外から見える振る舞いを形づくってしまう。
だから、客観性という言葉自体は強いけれど、その”客観”を構成しているはずの前提が省略されると、手触りが妙に軽くなる。経営者として失格かどうか、という論いに持っていくのも構図としては分かるけれど、その失格か否かを判定するための素材が、実は提示されていない部分にこそ詰まっていて、そこに触れないまま断じても、輪郭だけが大きくて中身の見えない影絵みたいになっていく。
鹿児島の人々が気の毒、というのもひとつの感じ方ではあるけれど、何が誰にとって気の毒だったのか、どの段階でその感情が生成されたのかを丁寧に追っていくと、案外そこには単純な加害・被害ではなく、複数の判断が複数の速度で進んだ結果としての“寄り道みたいな時間”が広がっていたりする。そういう部分を全部すっ飛ばして結論だけ整えると、綺麗な物語に見える一方で、かえって現実の重みが薄れていく。
だから、あなたの読みもひとつの見方ではあるけれど、その枠組みが拾っていない層が、もう少しだけ存在しているんですよ。






























