在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
東京で「食べるに困る子」が増えている ← 東京、首都圏の大学は農学部を設置すべきである。
東京で「食べるに困る子」が増えている明確な証拠 雇用難・物価高がシワ寄せ、食の支援の整備は急務だ
https://toyokeizai.net/articles/-/650891
コロナ禍に入って3年。世界的な景気減速の気配は漂うものの、日本国内の主要な繁華街や行楽地などには徐々に人や活気が戻ってきており、今や休日になれば郊外のショッピングモールやファミリーレストランなどは家族連れでにぎわっている。
ところが、そうした人々の明るい顔に隠れて、経済的事情によって「食べることに困る」子育て・単身世帯が静かに増えている。
どこか遠くの国のことではない。日本の首都・東京という都会のど真ん中の話だ。2020年に厚生労働省が公表した「2019年 国民生活基礎調査」で日本の子どもの貧困率は13.5%と7人に1人が、貧困状態にあることが指摘されていたが、現時点でさらに悪化している可能性がある。現場を歩くと、「日本経済が抱える問題の縮図」ともいえる断面が見えてきた。
ただでも、日本は若者に公務員志向が強くても人口の割にはさほど公務員の数が多くないのですよね、確かアメリカや西欧各国と比べると。そういう話は郵政解散の時にも出たけど、公務員憎しの論調は改まらなかった。だから、国家官僚を今以上にたたいたり悪く見るのは好ましいことだとは思えません。
何か、勘違いされてはいまいか。お分かりの通り、先の卑見はあくまで資本主義の枠内での政策選択の議論に過ぎない。換言すれば、そこに自ずから限界も有することになる。にも関わらず、そうした大学(大学院)で一般に語られている程度の次元でさえ、「社会主義」だの「スターリニズム」だなどと見当違いなことをおっしゃること自体が不可解である。あるいは、立教の佐々木さん辺りの本に盲従なさる弊害なのではあるまいか。そこでバランスを取るためにも、革共同が発行する『共産主義者』最新号でもお手に取ってみてはいかがか。そこにちょうど、『資本論』に関する彼らの見解を示した論文が掲載されていた。私は一つの考え方として、学問的に興味を抱いた。また、それらを黒田寛一や不破哲三らとも比較しながら目を通している。
確かに黒田寛一は卓越したマルクス主義者だと思いますが、あの時代状況からの制約は免れない。
そろそろ、あの時代から卒業しませんか、という提案だとお思いください。
だから内ゲバはしたくないですね。特にあなたとは。
ご懸念無用に願いたい。私は率直に卑見を差し上げるだけ。他意はなし。また僭越ながら、こうしてご回答申し上げるその前提に、その方ご自身に対するリスペクトの念が私に存する。換言すれば、私から無視される御仁は、お相手する価値すら認めていないということでもある。その基準は、至極明瞭。すなわち、当該ご批判なりお尋ねなりが、真摯なものであるか否かだけである。
まあ、農業や食料は東京どうこうでなく日本自体の問題だと考えないとだめだわな。ただ、東京が最も自分のところ以外から輸入に頼っているから、それだけ日本全国の中で一番考えてもらわないとといけないんだけど。
農政改革の停滞、ウクライナ危機で露呈
https://news.yahoo.co.jp/articles/4ce33161b4d465e211749d0f8aed2fee689c9154
生産手段を国有化すれば、労働者は全て公務員に類した身分を獲得し、資本の論理で疎外されることはなくなる。
でも、その代わりに待っているものは、国有化された生産手段を管理、運営するpolitburoと呼ばれる共産党の政治局員をTOPに戴く官僚組織が政治権力によって全てを差配する社会だ。
プロレタリアート独裁といえば、労働者の権力のように思えて少しは聞こえがいいが、実質は権力の強制力によって全てが動かされる社会だ。
権力闘争が全てになる社会がどういう末路を辿るかは歴史が実証済みだと思うが。
1 主たる目的は、諸悪の根源たる生産手段の私有を廃することにある。したがって、その後の管理は「国有」に限定されまい。「公有」「組合有」でも、地域や組織の実情に応じて、任意に選択すればよし。
2 また、「労働者がすべて公務員に類した身分を取得し」がわからない。マルクスやレーニンは、そのような考えは示して居なかったと思われるが。詳しくご説明願いたい。
3 旧ソ連での失敗は、ロシア革命で労働者らが奪取した権力をその後、漫然と党に委ねてしまったことにあったと思われる。それゆえ、官僚化に口実を与えてしまった。
番外 共産主義社会到達までの過程で、なぜ「プロ独」が必要なのか。それにつき、例えばレーニンが『国家と革命』、『帝国主義論』などで答えている。批判もあるが、論旨は明快である。いずれにせよ、未来社会は旧来の資本主義的価値観ではなく、自覚あるプロレタリア的人間像を前提にせねばなるまい。その時点で、資本主義は止揚されたはずなのであるからして。




































