女子美の中高大連携授業
東京で「食べるに困る子」が増えている ← 東京、首都圏の大学は農学部を設置すべきである。
東京で「食べるに困る子」が増えている明確な証拠 雇用難・物価高がシワ寄せ、食の支援の整備は急務だ
https://toyokeizai.net/articles/-/650891
コロナ禍に入って3年。世界的な景気減速の気配は漂うものの、日本国内の主要な繁華街や行楽地などには徐々に人や活気が戻ってきており、今や休日になれば郊外のショッピングモールやファミリーレストランなどは家族連れでにぎわっている。
ところが、そうした人々の明るい顔に隠れて、経済的事情によって「食べることに困る」子育て・単身世帯が静かに増えている。
どこか遠くの国のことではない。日本の首都・東京という都会のど真ん中の話だ。2020年に厚生労働省が公表した「2019年 国民生活基礎調査」で日本の子どもの貧困率は13.5%と7人に1人が、貧困状態にあることが指摘されていたが、現時点でさらに悪化している可能性がある。現場を歩くと、「日本経済が抱える問題の縮図」ともいえる断面が見えてきた。
>1 主たる目的は、諸悪の根源たる生産手段の私有を廃することにある。したがって、その後の管理は「国有」に限定されまい。「公有」「組合有」でも、地域や組織の実情に応じて、任意に選択すればよし。
国有でも公有でも組合有でも同じです。管理運営を巡って権力闘争が起こり、さまざまな権謀術数の末に権力を握った者が主導権を得て支配者となる。
私的所有は己の身体の所有から始まる。身体の次は財産です。ジョン・ロックの理論を参照してください。
個々の身体や財産の自由に関して他者による力での簒奪を防ぐために私的所有を認めるのが自然法思想の基本です。
国有や公有や組合有では、権益をめぐる権力闘争は防げません。
>こうして、資本主義時代の生産力の発展、労働の社会化、そして資本主義への対抗を通じて生み出されたアソシエーションを基礎として、個人的所有が再建されます。所有の主体は国家や社会ではなく、自由なアソシエイトによって人格的に結びついた自由な諸個人です。彼らは、あたかも前近代の独立自営農民や職人のように、生産手段との自由な結びつきを回復するのです。<「マルクス資本論」佐々木隆治544ページ>
同じマルクス主義者でも、あなたと佐々木隆治では、生産手段の所有についての考え方は大きく異なります。
権力闘争と言っても、それをちゃんとした話し合いに落とし込めるなら、組合だろうがアソシエーションだろうが何だろうが、そんなに悪いものではないと思うのだが。農協、漁協、森林組合、消費者団体、生活協同組合・・
社会的生産過程の資本制的原始分割は、経済的には生産=労働と所有とが直接的に統一されていた私的商品生産の否定、すなわち資本の定有としての生産手段と生きた労働との分割として表れる。それゆえ、労働が労働者にとり「自己労働」と正反対の「疎外された労働」になるのである。しかしながら、賃労働者らはその不合理をいつしか自覚し、その歴史的自覚はプロレタリア階級としての自覚に昇華する。
なぜなら、この資本制社会における富と貧困との差異は、生産と所有との分離に起因するものであることを知るからだ。まさに、「プロレタリアートは、彼自身のうちに集約されているところの、今日の社会のあらゆる非人間的生活諸条件を止揚することなくして、彼自身の生活を止揚することはできない」(『神聖家族』)のである。
それはまさに、私的生活一般の所有の階級的性格そのものの廃絶であり、プロレタリアの階級的自覚そのものでもある。それは、ブルジョア的労働観によるあり方という本質構造への主体的反省による自覚である。
その意味で、ご指摘の「権力闘争」云々は、いかにも上述のようなより向上、進化した人間像を想定できず、依然として旧態依然としたブルジョア的人間像に留まったものと指摘せざるを得ないのである。環境が人間の意思を決定するのであれば、未来社会もまた人間を進歩せしめるはずだ。
>社会的生産過程の資本制的原始分割は、経済的には生産=労働と所有とが直接的に統一されていた私的商品生産の否定、すなわち資本の定有としての生産手段と生きた労働との分割として表れる。
労働者自らが所有する生産手段を用いて、自らの労働の成果としての生産物を自らの所有物として出荷して売り捌く。これが疎外されていない本来の労働だということですね。この場合は労働力は商品とはならないわけだし。
そういう労働を実現できる産業組織を模索しなければならないということです。IT化はその試みを一歩前進させます。
現実の資本制蓄積過程の基底にある「根源的蓄積過程(社会的生産過程の資本制的原始分割)」こそが、直接生産者の賃プロへの転化の物質的基礎であり、プロレタリア階級の自己疎外の基底にある。また、その生産手段の資本への根源的な転化により、その私的所有者たるブルジョアジーによる強制がプロレタリアの「自己活動」と正反対の強制された、すなわち「疎外された労働」をもたらす。したがって、生産手段の奪還は、所有の階級的性格そのものの廃絶のみならず、資本制社会によって奪われたプロレタリアの人間性回復の返還請求をも意味するのである。




































