充実した教育環境の日大付属高校
文系大学か専門学校か
理系でないなら、中堅上位文系大学か専門学校で専門資格取得か、就職など、どちらがいいでしょうか。
東大学部学生数の女子比率は全体で18.6%。 教養学部(前期課程)18.8%、法学部19.1%、経済学部17.9%、文学部28.8%、教育学部37.2%、教養学部30.2%、工学部8.9%、理学部12.2%、農学部26.6%、薬学部23.9%、医学部19.8%。2019/09/13
↑年度が少し古いですが、昨年度分で女子率では法学部が伸ばしているという解説記事を読んだ記憶があります
東大は法学部の定員が、どこの旧帝と比べても多い、文学部の定員も多いけど
一般的に女子率で経済学部は伸びにくいらしい、あとは物理系の理工学部の学科は女子の受験者そのものが少ない傾向(生物が好きな女子は多い)
女子の志願動向が駿台偏差値の文系にも影響があるかもしれません
貼っておきますかね。
文系大学か専門学校かという問いは、選択肢が単純なように見えながら、実際には大学と専門学校という二項の対立が一人歩きし、二択という形式が選択の本質から注意を逸らしていく。大学か専門学校かという構図が定義された瞬間に、大学という語と専門学校という語がそれぞれ独自に膨張し、大学に入るという行為が学問ではなく大学という装置に所属する行為へと変質し、専門学校に進むという行為が専門性の獲得ではなく専門という語への信仰のように扱われていく。
中堅上位文系大学という表現が登場すると、中堅と上位という矛盾した語の組み合わせが作る曖昧な階層が生まれ、中堅上位という区分自体が目的化し、階層区分の正確性よりも階層を作るという行為が重視されていく。専門学校で専門資格取得という語も、専門資格という言葉の響きだけが先行し、資格が具体的に何をもたらすのかよりも、資格という語の安定感のようなものが選択の判断を支配してしまう。
理系でないならという前提が冒頭に置かれることで、理系という語が抜けた後の空洞が文系と専門を過剰に対立させ、理系が持っていた明確な職能イメージが欠落した穴を埋めるように、文系と専門という語が過剰に意味を負わされ、文系が抽象、専門が具体という分かりやすい構図に逃げ込みたくなる心理を生み出す。
就職など、という語が最後に付くと、このなどという曖昧な語によって、文系大学と専門学校の比較が就職の話のようでありながら、就職そのものの中身が語られないまま、就職という概念の影だけが文章を漂い、就職の中に職種や給与や地域差や企業文化や働き方の変化といった複雑な要素が存在するにも関わらず、それらが全てなどで一括りにされて、問いの複雑性が過小化されていく。
文系大学の実態も、専門学校の実態も、本来は分野ごとに全く異なる歴史と指導体制と出口戦略を持っているのに、大学か専門かという二択の形式がその差異を消去し、大学と専門を比較しているというより、問い手の不安を比較している状態に近くなる。中堅上位文系大学という語には、社会が文系大学に何を求めているのかの曖昧さが反映され、専門資格取得という語には、専門という言葉に安定を期待する願望が投影されていく。
文系大学か専門学校かという二択が設定されると、二択そのものが意思決定のように見えるが、実際には選択の本質ではなく、選択肢の記号が主導権を握り、大学と専門という語に込められた社会的イメージが意思決定の代わりを務める。大学という語は広がりを、専門学校という語は収束をイメージさせるが、実際には大学にも収束があり、専門学校にも広がりがあり、その逆転さえ起こり得るのに、語の持つイメージに従属する形で思考が固定されていく。
未来の不確実性が増す時代ほど、二択の形式は安心を提供するが、その安心そのものが幻想に近く、質問者の不安を可視化しているだけで、文系大学でも専門学校でもなく、選択という形式そのものの設計が問いの核心であるにも関わらず、その核心は問いの前提に埋まり、選択肢の並べ方が思考を規定するという構造が強化される。
二択が短いほど、選択の背後にある巨大な差異が消滅し、問いは簡潔であるほど複雑性を覆い隠し、簡潔さが思考の代用品として機能し、簡潔さが過剰な負荷を背負わされる。そして問いが短いほど、回答は長くなり、回答が長いほど、問いそのものの短さが逆に際立つ。この非対称性が、大学か専門学校かという問いの構造的な歪みを浮かび上がらせる。
学部別の女子比率を羅列して”なるほど構造が見えた”と思い込む発想そのものが、東大の問題を一度も立体的に捉えていない証左だと思う。女子比率は結果であって原因ではない。政策、試験設計、進路期待、研究領域の構造、そして教育制度の認知負荷がどう作用しているかという”生成の側”を見なければ、数字はいくら貼ってもただの統計装飾になる。
法学部が伸びたという話も、文学部が高いという話も、そこを”女子が選びやすい領域”として処理した瞬間に議論が停止する。むしろ見るべきは、物理系や数学系がなぜ選ばれにくいのかではなく、初等中等教育の設計段階で、抽象的思考の訓練やリスク許容の土台を誰がどこで削いできたのかという認知発達の断面だろう。
志願者の性別比が駿台偏差値に影響するというのも、偏差値という一元的尺度に現実を押し込める日本固有の評価文化が生み出す錯視に過ぎない。選択の自由度が高い国では、学部の魅力や研究環境が第一義になるが、日本では制度的制約と進路文化が優先される。数字の変化はこの文化の反射であって、女子側の”志向”を説明したことにはならない。
貼るなら数字ではなく、なぜこの構造が続くのかという問いだと思う。そこに踏み込まない限り、統計の更新だけが毎年繰り返されても、議論は永遠に平面のまま。
価値観という言葉で整理したつもりになっていますが、その言い回し自体が論点を曖昧にし、比較可能な基準を霧散させています。どれくらいレベルの高い勉強をしているかという表現も一見もっともらしいものの、そのレベルは誰がどの段階でどの指標によって測るのかが一切示されておらず、結果として努力量や満足度、自己評価といった主観の寄せ集めにすり替わっているに過ぎません。大学と専門学校の差を否定したいのであれば、教育課程の設計、到達目標の明確さ、評価の厳密さ、学修時間の拘束力、学問分野の射程、更新され続ける知の体系との接続といった具体的な構造を比較すべきであって、レベルが高いかどうかという曖昧語でまとめてしまうと、結局は個人の感想以上の情報が残らない。高度な勉強とは、単に難しい課題をこなすことではなく、抽象化と検証を繰り返し、前提を疑い、既存の枠組みを相対化しながら知識を積み上げる訓練を長期間にわたって強制されることを意味しますが、その強制力を制度として担保しているのがどこなのかという問いから目を背けてはいけません。価値観という便利な言葉で横並びにした瞬間、教育の質を左右する制度的差異や選抜の厳しさ、失敗が許されない評価環境といった不都合な現実がすべて消え、結局は何を選んでも同じという安心感だけが残る。その安心感こそが議論を止め、考える労力を放棄させる最大の要因で、どれくらいレベルの高い勉強をしているかという問いを本気で立てるなら、まずはそのレベルを成立させている構造を具体的に示すところから始めるべきです。
































