在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
国立大や高専などの施設整備に1・4兆円、文部科学省が試算…老朽化施設の改善に最大9800億円
また国立大学のクレクレ体質が始まりました。
現時点でも多額の補助金を受け取っておきながら、なぜさらに血税が必要なのでしょうか?
理解に苦しみます。
独法なんだから補助金体質から抜け出し、自力経営すべし。
もしくは老朽化したままで我慢するよりしょうがないでしょ。
本来、経済的に恵まれない人は頑張って勉強し、国公立に進む!ってのが
昔の大学進学模様でした。今は私大はもとより国公立すらバイトだけで賄えない状況です。これもみんな国の国公立への運営費等の見直しをしてこなかった
ことが原因ですよね!そもそも、勉強が嫌いで勉強をしない、出来ない人間が大卒の肩書欲しさに入るFランクラスの大学に補助金出すなど本末転倒!なぜ勉強しない輩に我々の血税を入れす必要があるのか?今一度見直しが必要では?
言っている不満の感覚自体は多くの人が共有しています。ただし、その怒りの矛先が少しズレています。
昔、経済的に厳しい家庭の子が勉強して国公立に進めたのは、努力が尊ばれていたからではありません。国が国公立大学を公的インフラとして扱い、学費と生活コストを制度的に抑えていたからです。その前提を崩したのが国であり、学生ではありません。国公立ですらバイト前提になったのは、まさに運営費を削り続けた政策の結果です。
次に、Fランクに補助金を出すのは無駄だという点ですが、ここも話を単純化しすぎています。補助金は勉強しない学生へのご褒美ではありません。18歳人口の受け皿、地方の雇用維持、失業の先送りといった社会政策を、大学という箱に押し込んだ結果です。教育としては歪んでいますが、意図は教育以外にあります。
本当に問うべきなのは、勉強する人としない人を切り分けることではありません。研究を担う大学、教育を担う大学、地域の緩衝材としての大学を、同じ補助金の論理で運営してきた国家の設計です。そこを整理せずに一部を叩いても、別の歪みが生まれるだけです。
努力が報われなくなったのは学生の質が落ちたからではありません。努力が機能する制度を、国が自ら壊してきた。その現実から目を逸らしたままでは、見直しは掛け声で終わります。
何れも理系若しくは文系の単科大学だが、東京工業大が一橋大学よりも安いと言うのが面白い。半世紀昔は、高校よりも安い12000円だったが、人口減により受験難は解消されたようだが、出費が国立大としては高い印象です。
東京工業大や一橋の学費差、あるいはハーバードの運用資金の規模は事実として興味深いですが、それ自体は論点の本すきじゃないです。
問題は、国立大学がなぜ安い公的インフラだったのか、そしてなぜ今そうではなくなったのか、です。半世紀前に学費が極端に低かったのは、人口動態の問題でも、受験難易度の話でもなく、国家が高等教育を社会基盤として位置づけていたからです。
ハーバードの巨額基金は、民間寄附と運用を前提にした私学モデルの到達点です。国家が担うべき役割を私的資本が代替している構造で、日本の国立大学と単純比較しても制度設計の違いしか見えてきません。
つまり、学費が高い安い、基金が大きい小さいという話ではなく、研究大学・教育大学・地域受け皿としての大学を、同一の財政論理で扱ってきた日本の設計そのものが限界に来ている、という話です。
そこを整理しないまま海外や過去と比べても、結論は感想文になるだけですよ。
強い日本にするには、いかに教育に予算を投じるかだ。大学院まで無償化が理想。奨学金チャラも含めて、この政策を訴えているのが、れいわ新選組。高市政権の積極財政は、どこまで的をとらえていくか。真価が問われる。
私も初期には期待しました。教育投資を正面から語り、大学院までの無償化や奨学金問題に触れた点は、日本の政党では珍しかったのは確かです。
ただ、次第に違和感が大きくなった。教育に金を出すという入口の話はあるのに、その先で何をどう設計するかが見えてこない。研究の質、評価の更新、キャリアの分岐、失敗後の再挑戦。そこに具体像がないまま、無償化だけが前面に出ると、制度疲労を先送りするだけになる。
積極財政そのものは手段であって目的ではない。教育に投じるなら、選抜の仕方、評価のタイミング、出口の多様化まで含めて語らなければ意味がない。れいわは問題提起は鋭いが、設計図が粗い印象が拭えない。
高市路線にせよ、れいわにせよ、問われているのは金額ではなく、どういう人材を、どの段階で、どう社会に接続するかです。そこを語れない限り、強い日本という言葉はスローガン以上にはならないと思います。




































