アートの才能を伸ばす女子教育
大学受験ママの息抜きスレッド
日々の子育てお疲れ様です。
そんな私達の日々の潤い、美容、ファッション、音楽や趣味を語りませんか?
お互いの批判やら、浅いなどのマウント等もやめてくださいね。
ゆる〜くいきましょ?
季節感は感じられるケースと、感じてゆくケースとがありますよね。桜の開花予想は、感じてゆくケース、急な雷雨は梅雨が感じられるケースですね。私は、冷やし中華始めました、のカンバンに、先を越される季節感を思い知ります。
>気づけば、日本から春と秋が薄くなった。
5月から10月ぐらいまで気温が高く突然の豪雨や台風、さらに7月後半から9月前半ぐらいまで酷暑、これって熱帯モンスーン気候の雨季に近いですよね。
寒い冬があるのでなんとか四季を保っているけれど冬は年々渇水傾向にあるような、乾季に近づいている感があります。
これがまだ亜熱帯海洋性気候だったなら過ごしやすいのですが。大好きなマンゴスチンとパッションフルーツが庭木となる日が来るかも。
思い出さんの文章、好きです。
日本が「熱帯化している」というより、四季のグラデーションが崩れ、雨季と乾季の輪郭が浮き始めている感覚。確かに近いものがありますね。
昔の日本の夏は、夕立や蝉時雨にどこか風情が残っていましたが、最近は空そのものが暴力的になった気がします。空気が重く、雲が巨大化し、雨が「降る」ではなく、まさに「落ちる」。
そして不思議なのは、その一方で冬が乾いていくことです。
湿った四季の国だったはずなのに、季節の間にあった緩衝地帯が消え、極端さだけが残っていく。。。まるで自然まで、余白を失っているようです。
マンゴスチンやパッションフルーツが庭木になる未来、少し笑いながら読んだのですが、同時に、そこには静かな喪失感もありますね。
南国の果実が実るというのは、本来どこか豊かな響きのはずなのに、日本人はその光景に、豊穣より先に「気候が変わってしまった」という感情を抱いてしまう。
桜や金木犀の匂いの記憶で季節を測ってきた国だからでしょうか。
子供の頃の夏休みの匂いまで変わっていく気がして、時々、少しだけ怖くなります。
いつか日本の子供たちは、金木犀の香りを、秋ではなく“昔”の匂いとして記憶するのかもしれません。
蜩や
秋の名前の
残響に
西千葉さんの口内調味は、もはや錬金術の域ですね。
しかも今年の暑さ、まだ5月なのに既に8月前夜の湿気を感じます。チョコモナカを単体で終わらせず、板チョコ追加で階層構造を作るあたり、関東の蒸し暑さへの対抗策として妙に理にかなっている気もします。
そのうち、アイス売り場の前で真剣にペアリングを考える大人が増えそうです。
駅のホームのベンチ、分かります。
まだ少し熱を持った夕方の空気の中で、電車待ちしながら食べるモナカ系は妙に美味しいんですよね。しかも、西千葉さんのお話を聞いていると、あの薄いチョコ層とパリッとした皮の完成度に、急に企業努力を感じ始めます。
板チョコ追撃型は、自宅限定の贅沢兵装ということで。
初夏の午前。
トヨタ系の大きな工場の敷地を、担当者の後ろについて歩いていた。5月なのに真夏の様な照り返しの強いコンクリート。遠くで唸る搬送機。白線で区切られた通路の向こうを、無人搬送車が静かに横切っていく。巨大な産業の内部は、無機質というより、むしろ過剰に整っていた。埃すら管理されているような空間だった。
その床に、小さな白い紙片が落ちていた。
最初は切り屑かと思った。工場では、そういう微細な異物に皆が敏感だ。だが、何となく気になってしゃがみ込み、指先で拾い上げた。
折り鶴だった。
5mmほどしかない。いや、もっと小さかったかもしれない。白い紙を、誰かが信じられない精度で折り続け、最後に翼まで作っている。掌の上に乗せると、それは工業製品の世界に紛れ込んだ、途方もなく個人的な何かに見えた。
不意に昔の光景がフラッシュバック。
電車の中。
多分県立高校の女子生徒。
夏の電車。クーラーは効いているが、ちょっとムッとする人混みの中、吊革を握る人たちの腕が汗ばんでいる。彼女は座席に座らず、扉の脇に立ったまま、俯いて何か細かい作業をしていた。
化粧でもしているのかと思った。
だが近くで見ると、指先にあるのは針だった。
その針先で、小さな紙を折っている。
信じられないほど小さな折り鶴だった。
器用、という次元ではない。呼吸を乱せば潰れてしまいそうな世界を、彼女は淡々と作り続けていた。電車が揺れても、周囲の乗客がぶつかっても、彼女の指先だけは静かな水面のようだった。
やがて完成したのだろう。彼女は鞄から透明な小箱を取り出した。
5cmほどのケース。
その中に、極小の折り鶴が山のように入っていた。
3mmほどしかない無数の鶴たちが、ビーズのように積み重なる。夏の日差しが窓から差し込み、その小箱の内部だけが、淡い銀河のようにきらめいていた。
あれは何だったのか。
暇つぶしでも、承認欲求でもない。まして効率や生産性とは対極にある。役に立たないどころか、あまりに小さすぎて、誰にも見えない。
それでも人は、ときどき理解不能なほど精密で、美しい無駄を生み出す。
巨大工場の床に落ちていた極小の折り鶴も、あの少女の小箱の中の無数の鶴も、どこかで繋がっている気がした。人間という存在は、巨大なシステムを作りながら、その片隅で、指先にしか宿らない宇宙を折り続けている。
夏という季節は、そういう記憶を不意に浮かび上がらせる。
白く灼けた床。
金属の匂い。
午後の電車の熱気。
窓辺の強すぎる光。
汗ばんだ指先。
透明な小箱の中で揺れる、小さすぎる鶴たち。
たぶん人は、大きなものだけでは生きていけない。
都市も、企業も、国家も、結局は誰かの指先に宿った、途方もなく小さな祈りの集積なのかもしれない。































