将来の選択肢が広がる学部合同説明会
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経産省の「2040年の就業構造推計(改訂版)」では、東京圏(一都三県)で2040年に約193万人の人材余剰が生じる可能性が示されており、その多くを事務職が占めるとされています。一方、地方では現場人材などの不足が見込まれています。
さらに、政府の「地方創生2.0」では東京圏への一極集中を是正し、地方の多極化を図る方向が示されています。
また、東京圏から地方へのUIJターンについても、「東京一極集中の是正」と「地方の人手不足に直面する企業の人材確保」を目的として、東京圏から地方への人材移動を促進する政策が進められています。
中小企業庁の資料でも、経産省の推計を踏まえ、一都三県では事務職を中心に約200万人が余剰となる可能性が示されています。一方、地方の中小企業では、AIを活用してホワイトカラー業務を補完しつつ、現場型の強みを生かしていく方向性も示されています。
政府資料を並べると、
・東京圏 → 事務職を中心に約200万人の余剰が生じる可能性
・地方 → 製造業などの現場人材を含め、人手不足が進む可能性
・政府 → 東京一極集中を是正
・東京圏 → 地方へのUIJターンを支援
・地方 → 人手不足の解消を目指す
という構図が見えてきます。
もちろん、「東京圏で余る事務職約200万人を、そのまま地方の製造業へ移せばよい」という政策が政府から提示されているわけではありません。
ただ、東京圏で余剰となる可能性のある事務職と、地方で不足する現場人材を、AI・リスキリング・職業訓練・転職・UIJターンなどを組み合わせて結びつけるという発想は、現在進められている労働移動政策と地方創生政策の延長線上にあるようにも見えます。
そう考えると、AIによるホワイトカラー業務の代替を国として積極的に進め、生産性を高める一方、余剰となった人材の地方・人手不足分野への労働移動を支援する。
結果として、AIによる労働生産性の向上と人材流動化が、東京一極集中の緩和にもつながる可能性があるのではないでしょうか。
AI時代の人材政策、地方創生、東京一極集中の是正を別々に考えるのではなく、三つをセットで考えてみても面白いと思います。
皆さんはどう考えますか?
その数十億円はあなたがいなければ他の人が利益を得て納税していたもので代替可能です。
しかし医師は医学部入学数で決まるので代替不可能です。
50年のスパンで社会全体で見れば4年の医師稼働期間が減少しています。
医師不足で失われる命もかなりあると思われます。
いや、話を大きくしすぎでしょう。
まず、私は東大卒かどうかすら公表していません。
それなのに、あなたは勝手に私の再受験による遅延を4年と決めつけ、50年スパンで4年間の医師稼働が失われた、と計算している。
そもそも最短ならマイナスは1年です。
あなたは私の医学部入学年齢も、再受験に何年かかったのかも知らない。つまり、あなたが出している4年という数字自体が、現時点では根拠のない仮定です。
そして、仮に4年だったとしても、私は現在すでに医師です。
医師が一人消滅したわけでもない。
医師になる時期が仮に数年ずれたというだけです。
その一方で、私は医師以外の本業を持ち、そこで実際に経済活動を行い、相当額の納税もしている。
しかも私の法人は独自の事業スキームによって粗利7割を確保しています。これは、単純に他人が同じ仕事を代替すれば同じ納税額になる、という話でもありません。
あなたは私の数十億円規模の納税について、他の人が代替できると言いましたね。
では、あなたの論理でいけば、私が生み出している付加価値も、その間に雇用している人間も、取引先も、納税も、すべて存在しなかったことにして、医学部の席一つだけを社会的価値として計算することになります。
そんな計算がまともな人的資本評価になると思いますか。
さらに、国が医療に約50兆円を使っているから何だというのでしょう。
それは国民全体の医療政策と医療費の話です。
なぜ、その50兆円を私一人の責任として背負わせるのですか。
私は医師として医療にも関わっています。その上で別の分野でも大きな付加価値を生み、納税している。
それを全部無視して、医学部入学が何年遅れたかだけを取り出し、医師不足で失われる命まで私個人の責任にする。
これは医療政策の議論ではありません。
単に、自分で勝手に設定した前提を積み上げて、最後に私個人へ社会的責任を請求しているだけです。
しかも、その最初の前提である4年すら確認できていない。
まず、私が何歳で医学部に入学したのかを知っているのか。
知らないでしょう。
ならば4年という数字から始めた時点で、もう議論として終わっています。
>美食、性愛、ブランド、芸術、希少性。必要性を超えたものに価値を与え、欲望そのものを文化的に編成していく。
そう考えると、ラグジュアリーとは単なる贅沢品ではなく、欲望を社会的・文化的価値へ変換する装置とも読める。
ドゥルーズ=ガタリのいう欲望機械という議論は、かなりこのあたりに接続してきますよね。
まさに接続してきます。
ドゥルーズ=ガタリは、分裂症を患い精神病院に収容されていた詩人で演出家のアントナン・アルトーの言説の分析に多くのページを割いており、芸術と分裂症は密接な関係にあると考えています。
その他、承認要求とか自己顕示欲とかも欲望の一形態として扱われており、どちらかというと、あなたの得意な分野かもしれません。
それはともかく、正確なご理解です。
ありがとうございます。
むしろ興味深いのは、ここでラグジュアリーを単純な欲望の対象として見るより、欲望そのものを生産する仕組みとして捉えられるところだと思います。
欲望は、何かが足りないから発生して、それを所有すれば終わる、というだけではない。
ブランドも希少性も芸術も、所有した瞬間に欲望が完結するのではなく、その所有によって新しい差異や物語が生まれ、また次の欲望が生産される。
そう考えると、ラグジュアリーは欲望を満たす商品というより、欲望を循環させる文化装置に近い。
そして面白いのが、そこに承認欲求や自己顕示欲まで接続してくるところですね。
他者からどう見られたいか、何を所有している自分でありたいか、という欲望まで商品化される。
だからラグジュアリーは、物そのものよりも、その物を媒介にして人間の欲望、社会的差異、自己像まで生産している。
語源のluxuriaが過剰や放縦から欲情・肉欲へ接続し、そこから現代の奢侈へ意味を変えてきたことを考えると、ラグジュアリーという言葉そのものが、欲望の社会化の歴史をかなり凝縮しているように思います。
単なる高級品の話ではなく、欲望とは何か、なぜ人は必要以上のものを欲するのか、そしてその欲望がどう社会に組み込まれるのか。
ここまで広げると、かなり面白いテーマになりますね。