アートの才能を伸ばす女子教育
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修身と道徳
修身とは、戦前の小学校で教えられていた、今の「道徳」にあたる科目です。
そして、下記は教育方針を明記した教育勅語の12徳目 です。
SS様、あなたは特に読まなければいけませんね。
親に孝養をつくそう(孝行)
兄弟・姉妹は仲良くしよう(友愛)
夫婦はいつも仲むつまじくしよう(夫婦の和)
友だちはお互いに信じあって付き合おう(朋友の信)
自分の言動をつつしもう(謙遜)
広く全ての人に愛の手をさしのべよう(博愛)
勉学に励み職業を身につけよう(修業習学)
知識を養い才能を伸ばそう(知能啓発)
人格の向上につとめよう(徳器成就)
広く世の人々や社会のためになる仕事に励もう(公益世務)
法律や規則を守り社会の秩序に従おう(遵法)
国難に際しては国のため力を尽くそう、それが国運を永らえる途(義勇)
来年の卒業式にむけて、SSさまの目に留まるように時々スレを上げときますね。
>一方で天皇や将軍や世間を知っている人たちも大勢いたんだと思いますよ。
文化人や知識人が将軍を知っていて天子様を知らないわけがない。
まったく反論になっていない。
私は当時の民衆(明治初期には国民)の多くが天皇の存在を知らなかったのではないか、と述べている。
その根拠として、以下の三点がある(再掲)。
第一に、当時の民衆が貧しく生活に追われ、意識の点も低くならざるを得なかったこと。
第二に、当時は通信手段も極めて限られ、天皇の存在を意識する可能性など皆無に近かっただろうということ。
第三に、封建時代における御恩と奉公は武士同士の関係性であった。ゆえに、当時の読書階級にあった
多くの武士にとってさえ、藩主や将軍は意識しても京の天皇など関心外(不知)の存在であっただろうということ。
よって、京都の一部の人々や戊辰戦争前の薩長土肥を除けば、明治維新初期ころまでの圧倒的多くの人々は「天皇?」の状況であったと考えるほうが自然である。まして長期間に亘り「将軍様のおひざ元」を自負してきた江戸の庶民らにとって、新たな支配者として登場した若者に対し、「天皇?」の意識であったことは当たり前のことではなかろうか。
だからこそ、明治の元勲らは慌てて「皇国史観」という名目の官製宗教、「教育勅語」との名称の思想統制などの施策を作出した。そして、この革命政権の歴史的正当性の大宣伝にこれ務めたのである。
付言:「天皇制」に対するあなたの心情はお察しするが、感情過多は学問的真実探求に親和的でない。
こんにちは。
>また、当時の人々はそれが何であるか知らずにいたのではないか。
当時の人々を 鹿 馬 にしてます?
今と違って娯楽の少ない時代に、一生ものとして誂えたお雛様、意味も知らずに大事にするわけないじゃないですか。うちの娘でも右近の橘をみて「なんでお蜜柑やねん」って聞いてきましたよ。
あなたも以前お嬢様の雛人形が御自宅に置いてあるとおっしゃっておられました。もしもお嬢様が「お内裏様とお雛様って何?」聞いてこられたらなんとお答えになるんでしょうね?まさか「知らない」とは答えないでしょう?
雛人形に言及していいますが、雛人形は江戸中期には東北から九州にまで裕福とはいえ庶民の間で親しまれていたのですよ。手に入れることがかなわなくともそこに集う人々は「お内裏様とお雛様」を知っていたと想像できます。
独身時代にすんでいた広島の鞆の浦(広島県の端っこ、ポニョの舞台になった港町です)で開催されるひな祭りに、数年前に訪れたことがあります。新旧沢山のお雛様が各々の家で飾られていて、一軒一軒拝見することができます。あんな小さな港町なのに、昔から伝わる雛人形が飾ってあるお家が沢山あるのに驚いてしまいました。
>第一に、当時の民衆が貧しく生活に追われ、意識の点も低くならざるを得なかったこと。
「当時のすべての民衆は貧しいもの」と決め付けているような書き方ですね、で、貧しい中でも楽しみごともあったでしょう。地方に多く伝わるお祭りや神事伝統が残っているではないですか。生活に追われていたとしてもまさか奴隷のような生活を送っていたではないでしょうに。
>第二に、当時は通信手段も極めて限られ、天皇の存在を意識する可能性など皆無に近かっただろうということ。
本当?天皇御隠れの際の鳴り物禁止令は伝達の時差があったとはいえ、遠方まで伝わったそうですが。
>第三に、封建時代における御恩と奉公は武士同士の関係性であった。ゆえに、当時の読書階級にあった
多くの武士にとってさえ、藩主や将軍は意識しても京の天皇など関心外(不知)の存在であっただろうということ。
そりゃ、普段意識しているのは「うちの殿」でしょうけど、形式だけでも将軍が天皇から任命されている事実は知識としてあったはずですよ。
それを「知っている」というのではないですか?
>不生産的労働者(ID:kTa2ThN3uM2)
伊勢神宮に祀られているのは何か?
万葉集の詠み人はすべて高貴のものであったのか?
皇国意識の源流である復古神道を、本居宣長に対して唱えた平田篤胤の草莽国学を支持してきたのはいったいどの階層の人々か?
天皇嫌いは個人の勝手だが、少しは勉強してから書き込むことだ。
個々の例外的事例にどれほどの説得力があろうか。
反論にもなっていない。
この国の過去においても、「租庸調」で課した大衆の汗の結晶でもって贅沢三昧をしてきた当時の天皇や皇族らの例もある。当然ながら、歴史家は、その時代をおおむね評価しない。しかし、大衆にとってつらい時代であっても、特権階級には「よき時代」であったのであろう。
要は、どの観点から見るかである。また、どの観点が公平で普遍的であるかである。
繰り返す。
この国の天皇は、一部地域を除き多くの大衆にとって知るところの存在ではなかった。
身近になったのは、人々に国家意識が育った明治時代中期以降になってからである。
むろん、それは明治政府による中央集権国家の象徴としての偶像化策動の効果である。
、
>その根拠として、以下の三点がある(再掲)。
第一に、当時の民衆が貧しく生活に追われ、意識の点も低くならざるを得なかったこと。
第二に、当時は通信手段も極めて限られ、天皇の存在を意識する可能性など皆無に近かっただろうということ。
第三に、封建時代における御恩と奉公は武士同士の関係性であった。ゆえに、当時の読書階級にあった
というか、
そんなことを言い出したら、
それは近代国家成立以前のヨーロッパ社会だって同じで、
農民は国王なんか知らなかっただろう。
それがどうした?という話である。
>多くの武士にとってさえ、藩主や将軍は意識しても京の天皇など関心外(不知)の存在であっただろうということ。
きちんと水戸学だとか、尊皇攘夷思想だとか、
勉強した方がよろしい。
不生産的労働者様
「昔昔の庶民は貧困で苦しい生活を強いられていたはず」というイメージはあなたの頭から離れないのですか?
それか、「庶民は貧困であった」としなければ、あなたのお説が通らないというのが本音なんじゃないの?
>きちんと水戸学だとか、尊皇攘夷思想だとか、
勉強した方がよろしい。
はっはい! 涼涼
外国人の観察でも天皇は庶民の尊敬を受けていたことがわかります。
オランダ商館付きの医師エンゲルベルト・ケンペル(元禄3年 1690年来日)「日本誌」
「天皇は現にその権限(教界に属する事項)を享有し、神々の正統な後継者として認められ、現つ神(あきつかみ)として国民から尊敬されているのである」
百姓一揆では天皇と百姓の関係が明らかに意識されました。「姓」は天皇から与えられるもので、「百姓」は多くの「姓」という意味で公民の総称です。直接天皇に徳政や年貢減免を訴えた一揆も多く、文政4年(1821年)の一揆で逮捕された林八右衛門の「観農教訓録」に、「然れば上御一人より下万人に至るまで人は人というに別はなかるべし」と「天皇のもとの平等」を訴えています。
<嘉永6年(1853年)陸奥国の三閉伊一揆>
百姓どもカラカラと打ち笑い、
汝等百姓などと軽しめるは
心得違いなり、百姓の事を能く(よく)承れ、
士農工商天下の遊民
源平藤橘の四姓を離れず、
天下の庶民皆百姓なり、
其命を養う故に
農民ばかりを百姓というなり、
汝らも百姓に養るなり。
此道理も知らずして
百姓杯と罵るは不届者なり
天下の庶民みな百姓、おのれら武士の命をも養っているのだ、カラカラと笑っているところが記録されています。農民は天皇の権威のもと強い存在でした。































