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【4102348】治安維持法の倍返し怨念が憲法に

投稿者: 恐怖政治のはじまり   (ID:y.mLJMYzVG.) 投稿日時:2016年 05月 09日 02:41

ハーバート・ノーマンと鈴木安蔵。
一般には聞きなれない名前ですが、日本にとっては重要な人物です。


ハーバート・ノーマンは日本で生まれたカナダ人です。戦前にイギリスに留学してコミンテルンに入り、それ以後はコミンテルンの秘密工作員としてカナダ外務省に入ります。
1940年には日本のカナダ大使館に勤め、この時に鈴木安蔵と知り合います。
真珠湾攻撃と共に交換船でアメリカに帰りました。

1945年8月30日、ノーマンは日本の専門家としてマッカーサーと共にバターン号で厚木に来ました。東京に来たノーマンは鈴木安蔵を探し出します。

つい最近、九条の会や護憲派が鈴木安蔵の映画「日本の青空」というものを作って、「あの憲法はアメリカが作ったものではない。民主的な日本人の総意が反映しているんだ」という宣伝をしました。

しかし、騙されてはいけない。鈴木安蔵はコミンテルンの同志で、日本では治安維持法適用第一号の京大学連事件で検挙された憲法学者です。
鈴木は戦後、ノーマンが憲法草案作りが始まることを見越して、東京帝国大学教授の高野岩三郎と共に憲法研究会を結成させました。
この憲法研究会は1945年12月26日に政府の改正草案より一カ月も早く憲法草案要綱を発表します。
これを「日本人が自発的に日本人の総意を反映している民主的な憲法草案をマッカーサーに突きつけた」として宣伝しましたが、鈴木安蔵の憲法研究会自体がノーマンのコミンテルン工作組織でした。
鈴木安蔵の草案を元にケーディスらが日本国憲法の最終草案を作っただけです。

特にノーマンが終始こだわったのが憲法一条でした。
憲法第1条で、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」 というのがGHQの案でした。
しかし、ソ連の意を受けたノーマンが動いて極東委員会から修正案を出させ、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」としたのです。この時ノーマンはワシントンに出張し極東委員会に勤務していました。

ノーマンがこれを挿入することにこだわったのは、1920年代以来のスターリンの対日戦略だったからです。天皇を制度にして国民の総意を口実にいつでも天皇制度を廃止できるようにしておくためです。

ちなみに高野岩三郎はGHQの下でNHK初代会長となり、天皇制廃止を主張し続けた人物です。

1952年、アメリカ上院司法委員会の報告でノーマンはソ連のスパイと指摘され、
1957年、ノーマンは赴任先のエジプトのカイロで謎の投身自殺をした。・・・

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  1. 【4102658】 投稿者: 生産手段を国有化?  (ID:VXkYNn.aGsQ) 投稿日時:2016年 05月 09日 10:37

    高野岩三郎は、明治から大正時代にかけて、東大教授として統計学を講じていたが、労働運動家の兄房太郎の影響で、労働問題に関心を深め、東大教授を辞して、大原社会問題研究所の創立に参画し所長に就任(1920年)。戦後は、日本社会党の創立に参加、また日本文化人連盟を結成するとともに憲法研究会を組織、1946(昭和21)年には日本放送協会会長に就任した。
    憲法研究会は、鈴木安蔵が作成した原案をもとに討議をすすめたが、多数意見は、天皇制の存続を容認するものであった。高野は、研究会案の討議に参加する一方で、主権在民の原則を徹底し、天皇制廃止・共和制樹立の立場から、1945(昭和20)年11月下旬、独自案である「日本共和国憲法私案要綱」を起草し、完成稿を鈴木に手渡した(掲出資料の日付表記によれば、11月21日に執筆し、12月10日に加筆したように見える)。この中には、大統領制の採用とともに、土地や公益上必要な生産手段を国有化する旨の規定が含まれている。
    同要綱は、第二章を修正するとともに、全体に若干の字句の修正を加えて、『新生』1946(昭和21)年2月号に掲載された論文「囚われたる民衆」の中に、「改正憲法私案要綱」と題されて収録された。



    共産圏のできそこない憲法?

  2. 【4108497】 投稿者: 酸っぱい兄の業績  (ID:1KjmQGkjZX.) 投稿日時:2016年 05月 13日 12:09

    ☆高野岩三郎☆

    説明: takano

    1871(明治4)年9月2日~1949(昭和24)年4月5日

    1871(明治4)年9月2日長崎県西彼杵(にしそのぎ)郡長崎区銀屋町(現長崎市)に生まれる。







    兄は明治期の労働運動家で日本最初の労働組合や生協を作った高野房太郎(1868~1904。 社会運動家・労働運動の先駆者。1886【明治19】年に渡米し、労働問題を研究。帰国後、片山潜【せん=1859~1933。岡山県生まれの日本の 社会主義運動の先駆[く]者。邊尾米・エール大卒。明治中期から昭和初めにかけて労働組合運動・社会主義運動に尽力。1914【大正3】年に渡米してアメリカ共産党創立に参加。

    1921【大正10】年ソ連に渡り、コミンテルン【第3インターナショナル。

    1919年レーニンらの指導の下、ソビエト共産党を中心としてモスクワに創設された国際共産主義運動の指導組織】の執行委員会幹部会員となる。

    また、日本共産党の結成を指導。モスクワで客死。


    主要著作に『「我社会主義』『日本の労働運動』などがある】らと労働組合期成会を組織した。1904年中国青島で客死【かくし=旅先で死ぬこと。異国で死ぬこと】)。 

    東京帝国大学法科大学在学中の1897(明治30)年に社会改良主義をとなえ、1912(大正元)年8月の友愛会(ゆうあいかい=鈴木文治ら15名で結成された労働組合。1919年大日本労働総同盟友愛会と改称、8時間労働・普通選挙などを要求、1921年日本労働総同盟と改称)の結成時に顧問となる桑田熊蔵(くまぞう)、日本の近代政治学の開拓者といわれた東大の初代政治学教授でのちに東大総長となる小野塚喜平次(おのずかきへいじ)らと社会政策学会を創立してその中心的メンバーとなり、事務局を担当する。

    大学卒業後、大学院に入学、主に統計学の研究に従事しながら、兄の影響から労働問題にも強い関心をもち、精力的に研鑽(けんさん)に励む。

    1899(明治32)年から4年間、社会統計学および経済学の研究のためドイツに留学、帰国後、東大にあらたに設置された統計学の教授に就任する。

    1910(明治43)年国勢調査準備委員となり、日本最初のセンサス(工業・農業など国勢の種々の側面を調べる統計調査)の実施を指導する。また、1916(大正5)年には、日本最初の「職工家計調査」を実施する。

    統計学の研究や講義の傍ら、法科大学より経済学部を独立に尽力し、1919(大正8)年に実現させ、さらに、櫛田民蔵(くしだたみぞう)、大内兵衛、森戸辰男等の日本を代表する多くの経済学者を養成した。

    同年9月にはこの年に創立された国際労働機関(ILO)の労働代表にえらばれたが、労働組合代表の互選を主張する労働組合からの反発にあって代表につくことを辞退、この責任をとって東大教授を辞職した。

    その後、倉敷紡績のオーナーであった大原孫三郎(1880~1943。岡山県生まれの実業家。キリスト教的理想主義から社会事業に大きな貢献をした。大原農業研究所・大原美術館などを創設)が出資した大原社会問題研究所(現法政大学大原社会問題研究所)の創立に参画、1920年には請(こ)われて所長となり、社会問題の研究調査や学者養成に精力を注ぐとともに、労働運動、無産政党運動の指導援助に生涯を捧げる。他方、大阪労働学校の経営委員長としてその運営に献身した。

    戦後、民間の組織として「憲法研究会」(メンバーは高野のほか、馬場恒吾【ばば・つねご=ジャーナリスト・読売新聞社長】、杉森孝次郎【元早稲田大学教授】、森戸辰男【元東京大学助教授・後に片山・芦田内閣の文部大臣】、岩淵達雄【政治評論家・元読売新聞政治記者。1946年当時、「新聞に岩淵の名前が出ない日はないといわれた」】、室伏高信【むろぶせ・こうしん=評論家・元朝日新聞記者】、鈴木安蔵【憲法学者・後に静岡大学教授】)を設立、憲法研究会の素案(憲法研究会草案)を作成する(1945年12月27日発表の憲法研究会草案は、鈴木安蔵が作成した原案をもとに討議をすすめたが、多数意見は、天皇制の存続を容認するものであった)。

    高野は、研究会案の討議に参加する一方で、主権在民の原則を徹底し、天皇制廃止し大統領制を採用する共和制樹立、土地や公益上必要な生産手段を国有化規定を盛り込んだ独自案を1945年12月28日に「日本共和国憲法私案要綱」として発表した(1945年11月21日に起草。これは翌1946【昭和21】年1月号『新生』の高野論文「囚【とら】われたる民衆」の中で、若干の修正を加え、「改正憲法私案要綱」と改題される」)。

    1848(昭和23)年4月に日本統計学会の初代会長に就任、同時に、安部磯雄(あべいそお)、賀川豊彦(とよひこ)らと連名で社会主義政党結成を呼びかけ、のち日本社会党の顧問となる。

    1913(大正2)年に東京神田神保町に岩波書店を創業した岩波茂雄、戦闘的プロレタリア作家にして民主主義文学のリーダーとして活躍した宮本百合子、平民社(へいみんしゃ=日露戦争勃発前年の1903【明治36】年、非戦論を主張する堺利彦・幸徳秋水によって結成された団体で、社会主義・平民主義・平和主義の3主義を標榜し、社会主義者の拠点として「平民新聞」の発行した)の運動に参加後、社会主義の普及に尽力した荒畑寒村(かんそん)ら当時の日本を代表する文化人ら17名で構成された放送委員会の推挙で、1946(昭和21)年から死去する1949(昭和24)年4月5日まで日本放送協会(NHK)会長に就任、戦前軍部に協力し、侵略戦争の狂奔(きょうほん=狂ったように走りまわること)した放送界民主化の大役を担う。

    主要著作に『統計学研究』(1915年)、『社会統計学史研究』(1925年)が、主要監訳書にウェッブ夫妻著『産業民主制論』(1927年)がある。

  3. 【4108713】 投稿者: 追記  (ID:VXkYNn.aGsQ) 投稿日時:2016年 05月 13日 14:50

    憲法9条がノーベル平和賞に三度目の推薦だって
    神奈川県の主婦の功績だね

    そうそうあなたの孫が餓死になっても
    憲法9条をおばあちゃんは守ったのよと

    言ってあげてください。

    戦争よりエネルギーより私たちは憲法9条を守って未来の子を餓死させます

    宣言今の間にしてくれないかな?

    歴史はめぐってくることを忘れないでください。永遠に

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