女子美の中高大連携授業
私立中学の価値
この不景気の中、希望しない私立中学へ無理して行かせる道理がないと思います。
公立中学という保険もあることだし。
皆さんどう思われますか?
我が家の場合、子供はまだ小4ですが、受験希望は以下の通りで、それ以外の学校なら公立中学へ行かせるつもりです。
新興系、成り上がり系、スパルタ系、予備校風系は基本的にパスです。
希望の私立中学に合格しなかった場合は、公立中学から県立トップ高校を目指します。
2/1 麻布か開成(武蔵もOK)
2/2 なし(栄光、聖光は良い学校だけど遠いので)
2/3 早稲田か暁星(筑駒は学区外なので)
2/4 芝
公立中学もしくは私立中学かの賛否両論ですが、私は、自分の住んでいる地域が荒れていなければ、国公立の中学で良いかと思います。理由は日本社会は確かに学歴社会、資格社会であることは事実ですが、結局大学がどこか、資格が何かで決まると思います。また実際社会に出てみると、超有名私学出身よりは国公立の高校出身の方が、柔軟性が高く、まだ人間的に幅広いと思います。また灘高や開成高を出たとしても、普段の日常会話で(おっ、すごいところ出身だね。)とは言われますが、決して将来を保障されるわけでもなく、このまえの教育番組では、日能研の偏差値60以上の学校が東大合格を占めているのは30%程度ということで、教育投資としてはperformanceが悪いと思います。
また勉強だけできるというのは私立中学出身の方が比率的に多い印象をうけ、社会で一緒に働く上で退屈に感じることが多いです。人間的幅の広さの問題ですかね。また日本で資格として安定している仕事のひとつとして医師が挙げられますが、私立中学、高校に学費を払うよりは国公立での教育で済ませ、もし自分の子供が私立の医学部しかとおらなければ、そのときに貯めていた貯金を払えば何とかなるケースもあるのではないかと思います。
ですから以上のことをまとめると、子供に安定した教育環境を与えることが出来れば、国公立の中学で良いかと思います。
通りすがりの企業人さん、
わたしも若い世代の教育を担当したときに同じことを思いました。英語と国語の問題がありそうだ、と。
現国は、差がつかないと言うことで受験想定では、あとまわしにするケースがありますが、改めて大事な科目と思いはじめています。何かやりようがあるのではないかなと思います。「私立中学の価値」の視点でも見ておく価値はあるかも知れないですね。現国と英語、古文・漢文につき、触発されて少し書いてみます。これら科目全体を通じて感じることとしては、彼らが思わず自らその勉強を開始したくなるような「感動」を如何に生徒にとどけられるのか、科目の枠にはまらない学びをコンテンツとしてどう構成できるか、だと思っています。長文なので詳細のご興味の無い方はスルーください。
現国
→ こころみに、教科書販売会社に行って高校教科書を4冊ほど買ってきて、どのような傾向があるのかを分析して見ました。採用されている各社の文章に重複する作者が実に多く、コンテンツ・メッセージが結構どれも近いことに驚かされました。現国は我々の頃なかった記号論的考え方、現象学的な考え方が随所に色濃く見られるなど進化していますね。理系・文系にもとても重要な部分と拝察しています。理系ではデカルト的な世界観(=物自体前提)でものを考える人が結構気になります。
<通りがかりの企業人さんの実感と比べてどうでしょうか。わたしは理系でも関係論的な網の目で決まる存在への気づきがあった方が、社会人(企業研究者・開発者)にとって非常に良いと思っています。
→ 我々の頃は「倫理社会」という科目で、カント、デカルト、ヘーゲル、ヒューム、バークリ、フッサールやニーチェなどの入り口を紹介して貰ったのですが、今は倫理社会ではあまりやらないで、現国や総合的な学習で社会かの先生が教えることが多いように拝察しています。入試で倫理社会の扱いが変わっていることや、受けにくいことなどが背景にあるようです。
→ 国語で扱う場合には、生徒への上手な導入部分の提示が大事な気がします。ソシュール等で貨幣+言葉の記号性とか国語で読ませてもよいですが、下準備は必要そう。ナマに提示すると限られた生徒だけがついて行けるだけになる危険があります。わたしは岩井克人さんの「ヴェニスの商人の資本論」などを面白く読んだ世代なので、岩井さんあたりの貨幣論から入るのが良いなと思います。(今年2010年のセンター国語第1問は岩井さんでしたね。)教科書でも筑摩書房のモノは岩井さんの貨幣論を教材に採取しています。
英語
→ 使える英語の基礎+英語で考えることも両面大事で、仰るようにTOEIC600程度では足りないとわたしも思います。かつて大学入試では駿台模試の英語で名前を載せたりしたことがありますが、それでも英米人を100点とすると当時の英語力は10点くらいだったと今、思います。ビジネスで英語を使い、日本語と英語で何かを書く時間は一緒くらいなのですが、社内の外人をお手本に勉強したことや、英語だけの3-4日の会議(逃げ場のない状況)が力をつけられたと思います。やはりNativeでうまい人が格段二違うという感動を味合わせることは、伸びるためにとても大事だなと思います。
自分自身もさらに何倍も繰り返しの訓練をしないとできるようにならないと思います。以上のように、通りがかりの日本人さんと同じで、日本人は英語を甘く見過ぎていると思いますし、英語がうまいなと思う日本人にほとんどあっていないのが本音ですが、英語は道具:「銅メダル英語を目指せ」日経ビジネスの著者は、やはりそれをよくわかった上で、このような形に仕上げているところがあると思っています。むしろ敢えてやっているそこが、著者の意図するところだと思っています。
→ 大学入試を視野に入れると難関大の英語は英語の形をした現国の面が結構あるのですが、その面が改めて大事である気がします。特に企業の理工系としては。・・・東大も70年代と比較すると問題文が倍以上になり、英語に慣れている側面やリスニングを重視(=配点を高くする)などしてきていますが、英語という科目で問う国語力(=考える力)は今の時代でも知的な集団での現場の仕事においては、今、改めて求められることだと思います。
古文・漢文についてはこれらを中学(とりわけ今の議論の場合、私立中学一貫校/進学校)で学ばせる理由は何か、をわたしなりに考え続けています。それぞれ、縦糸を補う横糸の役割をも担った重要な位置づけがあるように思えます。以下少し詳しく書いてみます。(敢えて分析的に書く・考えることを試みていますので細かいですがご容赦ください。)
・・漢文は、精神衛生面の安全弁(漢詩)+歴史の入り口(史記)
→ 漢詩:唐の漢詩は、ある程度頑張ってラダーの上を目指していても人生様々ことがあり、挫折もある、そのこと自体は昔から身に降りかかってきていて、其れが各種漢詩に託されている。迫力のある漢詩に出会って感動できれば、面白みを自分のものにできる。これらは、優秀層が陥りがちな精神的病に対し、有効なな安全弁のひとつとして将来機能するだろう。
→ 史記:高2の世界史Bでやり中国史の漢がいかに現代までおよぶ影響力を現代日本に及ぼしているかを学んでほしいものだが、漢の時代を実感を持って感じる横串に、高1程度で学びを行う史記を題材にした漢文は好適。先に歴史的な考え方のINPUTあれば入るときの敷居の高さが低くなるだろう。
・・・古文は、日本人が発展させてきた日本語の言葉の側面理解(平安時代+戦国時代)+日本の歴史・社会面での理解+良い文学の持つ芸術性の理解の一助+情感の理解の一助(万葉集)
→ 入門編
・竹取(や堤中納言)でストーリーの面白さから入り口を確保する。
・平安時代に土佐日記でかな文学を発展させたことの背景(=強いモティベーション)を理解する。(その流麗な文字の創造が総合芸術としての”平安文学”の完成を目指させた感動を体験)
・テクストだけではなく、三筆の手紙を見せて如何に現代に通じる美学を彼らが文面全部を使って表現したか、志向したか、を伝える。
・戦国時代の手紙(織田信長などの戦国武将)などの実物を見ると、その簡潔さ・実用性に感嘆する。ことばとしての日本語の究極を見る感動を伝え、戦国時代の古文で戦国武将の忙しい状況をリアルに想像し、歴史に思いを馳せる力、感動する力をも併せて養う。
→ 和歌の魅力の発見
古今集+万葉集のもつ和歌の魅力を理解することは中高生の大多数特に理系志望者には敷居が高いことがある。しかし、そこを中西進さんはじめ敷居を低くしてくれるエピソードを取り入れながら、歌の持つ力に抵抗感なく入ることで、限られた字数での限界表現の工夫(いかに字数に納めたか、前書きを如何に作者は活用したのかに感動できる)
・古今集では河原左大臣の歌から「しのぶもぢ摺り」の話などの入り口を作る。(うちはこどもと信夫山に行きました。子規・芭蕉などなだたる作家の句碑があり観光メッカになっている)
・寛政の改革を行った松平定信の文など力のある古文を読み、想いの理解が日本史への横糸になることを目指す。(東大でも手を替え品を替えて日本史・古文と出題がありましたね)
→ 俳句の魅力の発見
俳句は敷居は低いが、面白みを如何に中高生が発見・感得できるか。考慮中。
→ 古文の源氏物語は、友人に薦めをうけてかじっています。文系では高い山のひとつですね。わたしは深くありませんが、桑原師が予備校で講義された源氏物語鏡シリーズの感動はいまでもよく記憶しています。文学の持つ面白さ、日本語のすばらしさ、を伝えると思います。芸術面の部分が感得できることが、難しい教材だけに大事かとも思います。
>新入社員に毎年言うことの一つが、国語と英語の大切さです。意外に、プログラミングが得意なつもりでも、日本語のロジックが通らない、誤字脱字に気付かない人が多いです。
現代国語は必須、古文漢文は、まあ趣味の世界でもいいかな、という感じもしますが、私は大好きでした。秋山虔先生の源氏物語の解説書(大学文学部の教科書)など、おもしろかったけれど。
>わたしは、愚直にも、受験勉強を方便として勉強はしなかったので、日本史、世界史、地理、倫社、政経と全部授業を聞きましたし、文系の友人と選択講義を取ったりもしていました。それはそれで回り道もありましたが、良かったと思っています。
>専門の勉強しか興味がなく他は嫌いだ、ということは全くありませんでしたから、そのもののおもしろさを発見するように最初はしてしていました。なぜなら価値があるから勉強させて居るのであろうから、ということでしたが、実際、やってみるとそういうモノが多いと思いました。
知的頭脳集団さんのような万能タイプの方はそれでいいのでしょう。でも、そういうひとばかりではない。歴史に名を残すような偉大な科学者たちも、万能タイプもいれば一芸タイプもいる。私の知る範囲では、オリジナリティの飛び抜けて高いひとほど、一芸タイプの方が圧倒的に多いように思いますけどねえ。問題は、今の日本の教育制度が万能タイプのひとだけを、過大に評価するシステムになっているということです。だって、東大文1、法学部卒、公務員1種で上位、財務省入省、そういうひとが一番偉いという価値観ですからね。
それから、私の職場にも東大卒のひとがいましたが、そのひとの特徴として印象に残っているのは、プレゼンが異常に長いこと、長過ぎる。まあ、人はいいし、頭もいい、知識もあるし、よく勉強している。ただ、あらゆる問題に完璧な回答を提出しようとする傾向が強い。だから、「君はいったい何が言いたいのか?」ということになってしまう。自分の考えの重要性に優先順位をつけ、大事なものに時間をかけて、重要性の低いものは思い切って捨てる、そういうことができない。5教科7科目ひとつとしておろそかにしない、捨てるなんて考えられない、そういう受験勉強法の影響(弊害?)なのかなあ、なんて思ってしまいました。もちろん、東大生の一般的傾向だなどと言うつもりはありませんよ。知的頭脳集団さんの周囲にはそういう方はいらっしゃいませんでしたか?
人生は短い。時間も、お金も、能力にも、限りがあります。ですから、自分にとって何が本当に重要な問題なのか、物事の本質をつかみ枝葉末節に拘泥しない、つまらないものは捨てる、そう言う取捨選択の能力もまた、学者研究者にとって重要なものだと思いますけどね。
>また灘高や開成高を出たとしても、普段の日常会話で(おっ、すごいところ出身だね。)とは言われますが、決して将来を保障されるわけでもなく
外部の人がよく使う言葉だけど、中の人で将来が保障されたと思っている人って一人もいないだろうね。
中の人でさえ思わないことを何故外の人がそう思うのか不思議言葉の一つだね。
>そして、高校英語は、教材としては結構よくできていて、完全に習得すれば、ベースにはなりえると考えます。 会話中心、耳中心の英語よりも、単語と文法をきっちりやった英語のほうが、使い物になる。英語力が上がれば上がるほど、単語力=英語力に近くなってくる、と考えています。
>私は、企業の開発部隊が長いので、研究者ではないのかも知れませんが、国語英語は重要だし、たぶん最初に強制されなければ源氏のおもしろさに気づくことはなかったし、早くから専門に特化した教育をやらなくてもいいのではないかと考えます。
企業人さん、また英語の話ですか。企業人さんは本当に理系のひとなのかなあ?理系の英語はそんなに難しくないでしょう?どんなジャーナルだって、ごく簡単な構文しか出てこないではないですか。どれもワンパターンですよ。基礎力としては中学卒業レベルで十分だと思いますが。
日本人の英語の一番ダメなのは「会話」「耳」だと思います。自分もダメだから偉そうなことは言えませんが、国際学会で一番ダメなのは日本人です。プレゼンはまだ原稿読めばいいけれど、質疑応答になるとやっぱり「会話」ですからね。こればっかりは、韓国中国に学んだ方がいいでしょう。中学高校大学と10年やってこれですからね。日本の英語教育がどうしようもなく悪いとしか考えられませんよ。
理系の研究者が、「源氏のおもしろさ」に一生気づかなくたっていいじゃないですか。そりゃあ、気づけば気づいたでいいでしょうけど。「強制」なんかされてまで気づきたくありませんね、私は。
海外大好きさん、
【英語について】
銅メダル英語については、海外大好きさんの書かれたような状況での活用を想定して判りやすく書いた記事(*)だろうなと思います。通りがかりの企業人さん、海外大好きさんのご意見同様、日本人は単語力を増やし文法をしっかり固める、それが大事と感じます。(”耳”だけは機会あれば其れより前に作る、が私のプラス意見)
それにご指摘の通り、英米人は完了形は理由がないときにはあまり使わない(過去で書く)ことを知ることも大事ですね。わたしは欧米人が完了形、仮定法を使った例を数えるほどしか仕事では見ていません。また、日本人が、過去と現在を混用して書く人が学者レベルでもいおられますが、これが評価を下げていると思っています。(欧米人は、過去と現在はまず、理由なくごちゃごちゃにしませんので。)仮定法もほとんど然り。また、3語の熟語は、避ける傾向が顕著。(理由:1語で言えるから。)
簡潔・平明に書くことをかれらは目指しているように思えます。そういう実践的な心構え・最初に身につけるべき基本を、学校では文学部出の先生はあまり教えてくれません。それと、高校の教材も今はS.モームとはいわなくても、新聞記事・紀行文的なもの、だと、初歩/入り口ではとても身近であるため良いとしても、英語の目標・到達点は使う場面と話者で変わるモノなので、適切な教材選択の重要性を個人的には特に感じます。・・理系には理系出身の英語の先生がいてもおかしくないとさえ思います。(今の科目別の免許制の弊害でしょうか、難しいのですね。)
(*)
”英語は道具:銅メダル英語を目指せ 日経ビジネス”で検索できます。
<海外大好きさんWrote>
会話中心、耳中心の英語よりも、単語と文法をきっちりやった英語のほうが、使い物になる。英語力が上がれば上がるほど、単語力=英語力に近くなってくる、と考えています。
【公立中高一貫】
ご指摘の公立中高一貫は、同じ意見を持っています。
このインターエデュのENAの記事に2月3日の約3万人の受験生のうちの約1万人が公立中高一貫を受験している事実がある、との指摘がありました。定員は11校で1600名ほど。少し考えてみると、10000名からスタートし考えると20-30名は東大に入るレベルだと思います。この率は0.2%ですが、一般の公立中学の0.1%の倍のレベルで、11校の入学者1600名から見ると1.3-1.9%位。(東京の私立中学の卒業生(全レベルの私立100-200校余り)に対する東大合格者は1.1%程度なので、それより少し良いイメージ)かなりの影響力を「公立ルート」にまずは及ぼすでしょう。
今、都立高校から東大に合格している人は90名くらいでしょうか。おそらく私学受験者が公立中高一貫を志望しているのが、わかりませんが2-4割あれば、公立中学から公立中高一貫へ向かっている流れの中で、難関大学(例えば東大)の合格者の2-3割が、既存の都立高校から中高一貫の合格者に振り替わるでしょう。・・・ですから、遅くとも2015-2016年春にはマスコミにも大きく載る部分で、仰るような「公立中高一貫」が私立&国立中学受験→私立&国立中学受験&公立中高一受検 の世界に進化すると思います。(わたしは某森上研究所さんが誘導的に主張されるような高校受験への回帰は本筋ではないと見ています。氏はビジネスとして、その点を敢えて宣伝しているだけ、とわたしには思われます。)
同時に、私立中学も公立中高一貫との比較では、2つの評価軸すなわち、大学進学実績と教育のコンテンツで、それより優れるかがポイントでしょうね。(理由:高校入試がないというメリットは同じで中身が問われることになります。厳しいバトルのポイントですね。)
<海外大好きさんWrote>
子供は、中学受験に興味がなかったので、塾に通ったことはありません。公立TOP高に入れればと考えていましたが、たまたま近くに公立中高一貫校ができて、運良く受かったので通っています。公立中高一貫校はあまり知られていませんが、勉強だけでなく色々な機会が提供されています。公費で日本代表として海外のイベントに行く子も毎年います。そうゆう環境に影響されて、東大を目指すようになりました。 経済的に余裕が無いとか、公立で十分という考えなら、公立中高一貫という選択肢は悪くはないです。私学の難関と比べたら、偏差値は大したことはありません。でも上位5%くらいは、かなり優秀です。先生方の気合の入れ方は、公立TOP高並みです。国立難関大学に進学する子もそれなりにいます。公立の費用で私学並みの環境かも知れません。お勧めです。




































