在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
私立中学の価値
この不景気の中、希望しない私立中学へ無理して行かせる道理がないと思います。
公立中学という保険もあることだし。
皆さんどう思われますか?
我が家の場合、子供はまだ小4ですが、受験希望は以下の通りで、それ以外の学校なら公立中学へ行かせるつもりです。
新興系、成り上がり系、スパルタ系、予備校風系は基本的にパスです。
希望の私立中学に合格しなかった場合は、公立中学から県立トップ高校を目指します。
2/1 麻布か開成(武蔵もOK)
2/2 なし(栄光、聖光は良い学校だけど遠いので)
2/3 早稲田か暁星(筑駒は学区外なので)
2/4 芝
趣味的な受験、賛成その2 さま
遅くなってすみません。あまりこれないもので(^_^;)
親の強制…そうですね、そこが問題ですよね。
親が色々な学校を子供に見せて、子供自身が決意して受験に臨むのなら、いいのですが
確かに中には親に言われていやいや来ている子もいると思います。
ただ、現実として4年生で受験を意識出来る子は少ないでしょう。
兄弟がいて、すでに私学に行っている家庭は別ですが。
6年生くらいで親子でしっかり再考して中学受験するのか、どこに行きたいのか、そして地元の中学もきちんと見てみる、ということが大切だと思います。
高校受験のための塾、うちの地域はけっこう小学生から行ってますよ。
公立上位校をめざす、とうたってるところは沢山あります。
地域差なのかなあ。
ECCなどに通っている子もいるし、
「中学は内申が大切だからどの教科もおとせない。」
と言って、幼稚園のころからピアノに体操、絵画教室、公文、スイミングに通わせてる方もいました。まあこれはものすごーく極端な保護者だとは思いますが。
でも、小学校高学年から通塾はぐっと増えます。
逆に何もしない子はかなりの確率で落ちこぼれて行く完全二極化の傾向があります。
うちの地域が極端なのかもしれませんが。
誤解のないように、付け足しますが神奈川でも公立中でいい学校も沢山あります。
どうしても、自分の経験したことしか人は語れないので、議論が平行になってしまうのでしょうね。
趣味的な受験、いいですね~
その考えには賛成します。
うちは上の子が行った私学がとっても気に入っていて、(いわゆる中堅校で人様に自慢できるような学校ではないけれど)親としてはとても満足しています。
人によっては、高い授業料はらってそこ?と思うかもしれません。でも、そこに価値を見出している人もいるのです。
公立で満足していらっしゃる方、それはそれで素晴らしいと思います。
私自身、中学は公立ですし、そこでとても楽しい3年間を過ごしました。
いい中学でよかったな。と思っています。
公立であろうと私立であろうと、そこで学びとるもの、感じ取るものは人様々でしょう。
同じ学校に行っていたって、人によって全く違います。
>
私立でも公立でも偏差値に関係なくどの子も笑顔で学校に通い、やりたいことを見つけられるような世の中であって欲しいです。
本当に!!まさにこのヒトコトにつきますよね。
いただいたご質問には答えた気がするので、ちょっと質問です。
Q1 一芸にすぐれることは、いつも絶対的に価値が高い人生の目標でしょうか。(そして中高生の目標でしょうか)
→ 一芸に優れた専門家がすばらしい、というのは他者からの評価、自分の興味でそうなりたい、の両面が本来あります。
主に、他者からの評価についてですが、かりに優れた、化学者・物理学者、研究者・開発者を目指すとして、一芸に秀でていることはすばらしいですが、それだけでは、難関大学の教授という役職で期待される職務はこなせないか困難があるはずです。足元では研究室のマネジメントがまずありスタッフ・学生の育成・教育計画があり、大学内外のさまざまな会議の対応、予算調整、企画への参画、マスコミや社会への発信など、バランスが必要な業務がある。人並かそれ以上の銅メダル~も色々必要に見えてなりません。好きな研究ができる権利と期待されることを果たす義務、出言えば両方ですね。・・企業であれば、価値を生み出してなんぼ、からのスタートですから、上記のようなことが、当然ながらもっと必要です。「自分に取っての興味・価値」からだけ発想する人は、求められていない人材、でつらいのではないでしょうか。
Q2:一芸に秀でた人がほしいというのは、評価の軸のうち”他者からの評価”の部分がまずもって強いですが、
一方で自分の内面の方で、自分自身はそんなに ”専門家になりたい、専門を極めたいひとばかり”なのでしょうか?
そしてそれを目指して若い世代を教育すべきなのでしょうか。
→ もう一方の評価軸、内面の方の質問です。社会で居所を得るためにそういう行動パターンがあることは理解していますが、自分の側ではどうか。・・本来、個人の興味は、多様な興味の人もいるし、ひとつに集中していく人も両方いる訳でしょう。万能ということはないですから、多様な興味をもつ「普通の人」に大抵はなるわけです。趣味が多い人かもしれない。一芸に秀でた人がより高い評価を得るというのも、限られた世界(例えば学者)のモノサシな気もします。実際には、その両方もあるということで議論すべきかもしれません。わたしは、「普通の人になる」方法を私立中高生で教えても良いのではないかと思っています。社会に居場所があり、期待される価値を生み出すことができることはMUSTですが、だからといって専門だけの人間に大多数がなる必要はかならずしもないと思う。
知ったかぶりしないで欲しい さん
私が書き込んだのは93ページで
>・内申の為に部活動や委員会を選択するような姑息な人間にならない確率
と書いています。公立だからどうこうではなく、学校を選択する基準としてです。
それを100ページで 趣味的な受験、賛成 さんが
>「私立中学に行く方が内申点を取るために教師に媚びを売るような姑息な人間になる確率が低くなる」
と表現され、私立なら良い。と言う様な書き方に変換されている。
私は公立批判をしたい訳では無いし記載した記憶もありません。
ですので、貴方が書かれた
>いちいち「公立がだめだから」などと言わないで普通に受験して下さい。
などと、私は言っていませんし思ってもいません。その中学校に対しては不信感をもっていますが。
私は以前のレスにも書きましたが、極端な一例を見てその集団を括ってしまう考えは大嫌いですので。
実際に子供が通っているのも国立中ですので、括りで言えば公立です。。。
私はその中学校の方針によって子供が姑息な人間になる様なら、
どんな高偏差値の国・私立学校に入れて貰えたとしても行かせません。
また、101ページに記載した内容は脚色などしていません。
神奈川の中学校全てがその様なシステムでは無いでしょう。我が家の学区での中学校の話であり、
近隣の別の中学校ではその様な加点システムは無し。同じ市内で別の区であれば全く違う。
私も知っているのは2校のシステムだけですが。
私は知っている事実のみを記載しています。ただ、表現が不明瞭だった事はお詫び致します。
言葉遊びになってしまいますが、貴方(または貴方の友人)は
>神奈川は内申の割合が高すぎることは友人にも聞いていますが、
>部活の役を争うなんて言っていませんでした。
と書かれていますが、神奈川の学校全てをご存じで書いているのですか?(そんな訳ないですよね)
この様な中学校も有ることは御承知頂きたい。
※私も別に怒って書いているわけでは無いので・・・御返信まで。
小学校1,2年で、親はノータッチ、当然提出物は皆無。
小学校3年で、漢字は書けず、一桁の足し算、引き算もできす。
とうとう小学校4年生が来ました。
いきなり難しくなる内容、親子ともそこで始めて気づいても、時、既に遅し。
なんて、パターンがあちらこちらで転がっています。
当然、再起不能に親子ともなれば、今度は学校潰しにかかります。
クレーム、授業妨害その他、結果としては、学校崩壊。
これは、仮に勉強の準備が出来る家庭を強者として考えれば、土台が無い、若しくはチャンスが無い家庭を
弱者と考えられよう。
学校内で、弱者を廃絶するのではなく、助けて、協力してあげていく事も必要ではないか。
友達通しでの協力が、一番効果があり、助けになると思う。
今の時代では、それぞれの家庭が、そのような意識を持つ事が大切だと思う。
やはりいまの小中学校では、先生達と生徒の間に深い溝があるのだ、と思いました。でも、実態としては小学校と中学校では大きな違いがあります。高校進学のための「内申書」とういうやつです。
私達が先生達を嫌うのには、たいていまともな理由があります。先生達の言動について、どう考えてもおかしい、と思うことは少なくないのです(具体的に書くと長くなるので省略)。
そんな時、「それはなぜですか、おかしいじゃないですか」と意見できる場は、いまの中学生にどれほどあるのでしょう?私は中学生ともなれば、先生達に意見するのもありだと思います。もちろん自分達がいつも正しいと思っているわけではなく、その意見のほとんどがあげ足取りになってしまうでしょう。でも、まずそういった雰囲気・場が必要なのだと思います。言いたいことが言えなければ、心のなかから腐っていくのです。
しかし、結局のところ「内申書」なのです。これによって私達は、先生達に直接意見する機会をいつも逸しているのです。たかが「内申書」に怯えるなんて、臆病だと分かっています。しかし今の中学校の先生達に、生徒の意見を前向きに聞き、それによって「内申書」に手を加えたりは絶対にしないと約束できるでしょうか。実際、内申書は先生達の武器になっているように思えてなりません。
中学校で先生・生徒間の溝を埋めるとしたら、まず内申書の圧力を下げることではないかと思います。
まだ十五歳ながら目上の人に媚びる卑屈な根性を覚えてしまったなんて、わが身ながら情けないです。二月九日に高校に推薦で合格しました。結局のところ、内申書を一番利用したのはこの私なのかもしれません。
『なぜ学級は崩壊するのか』(朝日新聞社会部編 教育資料出版会 P.42)
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解決済みの質問
三者相談で ・・・さん
私は中学3年生です←受験生・・
今日は三者相談があったんですが、
私は担任がとても嫌いです。
というかクラスで好んでいる人はいないってくらい
担任は性格がひねくれています。
例えば、生徒が提出物を忘れたり、
自分にとってマイナスなことがあると生徒に
『内申書に悪く書く』と言い、
そのことが生徒の親に伝わらないように
『親に(担任の悪口)言ったらお前の悪いこと全部話す』
と脅しているので誰も保護者などは担任に反発しません。
なので私は目をつけられないよう目立たないように
静かに学校生活を過ごししていたので
三者相談ではそれほど悪いことは言われないだろうと思っていました。
しかし、三者相談が始ると
その担任は親(父)のことを
『芸能人にいそうなカッコイイ顔ですねー』
などと言って親を見方に付け、
私にはボロクソ言ってきました。
『内申書をあげる為に先生がトイレ掃除をしろといったらしろ。』
『先生の手伝いをしろ。』
『関心意欲を上げるために5教科の先生に
休み時間になったら一人でわざとでも良いから質問しに行け。』
『仲の良いグループでふわふわしてばっかりいるな。』
また成績表や受験の資料を見せながら担任が説明しているとき
私はずっと資料の方に目を向けて話を聞いていて
返事をしなかっただけで
『はい!でしょっはい!そんなんだったら受験落ちるよ。』
そんな事を言われてからどんどん父も私に溜め息するようになりました。
受験では必ず返事をするのは分かっているし、
資料を見て話を聞くことはそんなに悪いことでしょうか?
そんなことに反論できない私の弱さや
将来の夢を決めていないのに勝手にべらべら喋られた嫌さや
私の事と関係ない私の優秀な兄の話を親がニコニコしながら喋っているショックや
いきなり私のいじめられていた話をされて
負けてはいけないと分かっていたのに三者相談の最中に泣いてしまいました。
それなのに担任は勝手に受験面接をやり始めました。
私はまったくやったことが無くて無言だったら
『嘘ついてもやれ』と言って
三者相談の20分間をとっくに過ぎて
1時間15分ほどやりました。
もう正直、学校にも行きたくありません。
親は家に帰ってから担任が言っていたことと同じことを叱り、
もううんざりです。
だれか私を励ましてください。
可哀そうな中学生さんへ
今大変な時期ですね。担任の教師や親がそんな感じではやってられないですね。丁度年齢的にも多感の時期だと思いますので、社会の矛盾や心の中のざらつきを感じやすいと思います。ですが受験はもうあと少しです。
私自身もなかなか親や教師に理解されない中で受験をし、難関といわれる高校をパスし
その後医師になりました。入試や資格試験、日常の救急医療の現場で自分が困難に陥った時に、最後まで自分の応援をしてくれる人は自分ということと、困難は自分を成長させてくれる
チャンスなんだと言いきかせて頑張ってきました。
これが良いメッセージになるかどうかわかりませんが、こういう考え方もあるんだよと言いたくてメールをしました。
私立中高の価値は何か?
ベン図を使って考えて見ます。
まず全体としての「中高の価値」があります。
その中に、「公立の価値」と「私立の価値」がある。
ベン図的には、公立と私立の共通部分があり、
公立特有の価値、私立特有の価値があることになります。
どちらにも属さない部分の集合は存在しません。
このベン図を眺めて気づいたのは、
最も肝心な部分は全体としての「中高の価値」が何を含むのか、
これを自分なりに定めないとベン図を上手く描けないということです。
よくよく考えてみると共通部分の占める割合が自分の場合にはとても大きく
よって公・私それぞれ特有の価値の部分は極めて小さなものでした。
このベン図をさらに拡張して、
「一生」を全体集合とするときに
自分にとっては「中高の価値」はとても小さく
「幼児期の価値」「小学校の価値」「大学・院の価値」「社会人となってからの価値」
がとても幅を利かす形となりました。
そんな折に、知的頭脳集団を目指すならさんのご意見を読ませていただいて
「中高の価値」の枠が以前より大きくなる方向に変化するのを実感します。
「中高の価値」は本来2つの要素から成っている、すなわち「中高の時代になにをしなければならないのか」と「生徒を受け入れる側(学校)に対する外部評価」、と換言してしまうのは乱暴でしょうか。「中高の価値」のままですとなかなか理解しにくいものですから。
「中高の時代に(公立学校で・私立学校で)なにをしなければならないのか」に関しては公・私では共通部分しか見えてこない一方で、「生徒を受け入れる側(学校)に対する外部評価」については居住地など実に多くの要因の違いからそれぞれ固有の部分が大きくなります。これが、「公立がよい・私立がよい」の互いに正しい意見が共存する理由ではないでしょうか。
「今できること」は限られますので、「生徒を受け入れる側(学校)に対する外部評価」について思い悩むより(実際には個人的な対処ではどうにもならないことのほうが多くて、胃が痛くなるほど悩みは大きいのですが・・・)も「中高の時代になにをしなければならないのか」(実態からすれば、「幼児期~小学校の時代になにをしなければならないのか」ですが・・・)を考えることにより時間をかける立場をとりたいと思っています。それぞれの時期ごとに次の時期を念頭に考えることが、間違いなく生産性があると思えるからです。
本当に正しいかどうかはわかりませんが(自分にはわからないのでこのエデュからも学んでます)、遊び、野外体験、家族や友人とのかかわりと同じくらいに、1つには「言葉の学習」も重要だと考え子供に接しています。「国語は全ての学習の基本といわれている」からではなく、「国語ができないと試験に不利」だからでもありません。「人間は言葉を介して全ての認識をしている」からです。
「言葉が存在しないとヒトらしくは何も認識できない」このことは意識すべきことだと思っています。
口語でも、書かれた文でもそのなかにある「言葉・記号・数・空間・・・」の深い意味・背景・時の流れ・気持ちを感じ取り読み取ることをもってして「言葉の学習」と考えています。
実体験していないことを、あたかも実体験したかのごとく何十倍何百倍のスピードで経験できる「読書」をできるだけ早く可能な状態にすることを考えてきました。
中高生における「国語」の重要性の提示がございましたが、全くその通りだと思います。




































