女子美の中高大連携授業
私立中学の価値
この不景気の中、希望しない私立中学へ無理して行かせる道理がないと思います。
公立中学という保険もあることだし。
皆さんどう思われますか?
我が家の場合、子供はまだ小4ですが、受験希望は以下の通りで、それ以外の学校なら公立中学へ行かせるつもりです。
新興系、成り上がり系、スパルタ系、予備校風系は基本的にパスです。
希望の私立中学に合格しなかった場合は、公立中学から県立トップ高校を目指します。
2/1 麻布か開成(武蔵もOK)
2/2 なし(栄光、聖光は良い学校だけど遠いので)
2/3 早稲田か暁星(筑駒は学区外なので)
2/4 芝
スレ違いですが。
F15イーグルは、離陸直後に急速引き起こしを掛け。
垂直上昇に移っても、失速しません。
なんせ、最大エンジン推力>>機体重量ですから。
下記動画、14秒辺りから
滑走路端をほぼ真下にしながら垂直上昇している機内からの後方映像を、見る事が出来ます。
http://www.youtube.com/watch?v=ilmfQSWH9SE
今日は調子が悪く、インフルエンザかと思って医者に行きましたが、どうやら単なる風邪だったようです。
断片的になりますが、思いつくことを。
大学改革について
技術屋の観点からのみです。前のスレッドのときから、大学院改革が急務である、と述べてきました。カリキュラムは重要ですが、水膨れした博士課程の定員をなんとかしないと、ひとたび離反してしまった学生の志向は、戻ってこないでしょうね。これが、学部や修士課程の就職予備校化に拍車をかけていると考えています。
企業人としては、学生に魅力のあるポジションを十分に提供できていないことは反省すべきと考えています。
ただし、少なくともうちの会社の研究や開発部隊では、大学に期待しないなどということはなく、修士であれ博士であれ、けっこう時間をかけて、実績と、本人の実力を見せてもらっています。
ここ2年ほどはお声がかかっておりませんが、その前の4年間くらいは、大学の先生方と、比較的公式の場で、人材育成について話をすることが、けっこうありました。一貫して、すぐれた独創的な指導者の育成、ということを主張し、海外からのスカウトもあり、という話もしました。
最初のころは、大学の先生の鼻息が荒く、博士を採用しない企業が悪い、という論調が主流で、全然かみ合わなかのですが、先生方も、多少、大学側の責任を認識する方向に変わってきたのではないかと思っています。
思い切って博士課程を縮小し、修士以下に職業教育の要素を取り入れれば、ずいぶん変わるのではないかと期待しています。大学の先生の評価に、博士課程定員の充足率、なんていうのははいっているうちは、ダメだろうけれど。
積み上げの専門基礎教育については、私は、必要性を感じていて、これは、独創性を発揮するベースであり、個人の武器となりますので、多少しんどくても、たたきこむ必要があるかと思います。また、徒弟制度も、師が優秀であることを前提に、必要かと感じています。一流の学者でも、弟子を潰して自分の成果にする人も多いので注意が必要ですが。
追加すると、周辺の分野の知識や、動向をセンスするアンテナはあったほうがいい。現在、技術は飛躍的に進歩していますが、学問はちょっと停滞期にあり、アインシュタインやハイゼンベルグなんかが出て学問体系が変わった時代ではないのです。オリジナル、といっても、既知の成果の絶妙な組み合わせ、というのが多いことが理由です。
最後に、ゆとり教育について。
日本もアメリカも、勤勉な中産階級が崩壊して、社会全体がおかしくなったように感じています。ゆとり教育は、こういう層の破壊に積極的に寄与したのではないか、という問題提起を、前に書かせていただきました。そのかわり、すばらしく独創的な人材の出現におおいに寄与した、というのならいいのだけれど、日本のあしき横並び意識からか、こういう人材をひっぱりあげる施策は皆無だったし、そういう兆候もないのが残念です。
連投失礼します。
知的=量的さま、地域、時代さま
古典が話題になっているので、しょうもない体験談を聞いてください。
いや、聞いていただきたいだけで、何を主張しようというものではありません。
大鏡が出てきたので、なつかしくなったのです。
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前に、源氏物語が好き、というのはお話ししたのですが、この原因は、実は、高校の日本史の授業にありました。
これがとんでもない授業で、東大の史料編纂所から刊行された、藤原道長の日記(和様漢文)を、何十ページも延々と読む、というのを、かなりの期間やりました。
当時、女性は和文、男性は漢文、というのがしきたりだったので、道長の日記も当然漢文なのですが、中国語をできるわけもなく、和様漢文、という、日本式の漢字の羅列なのです。当然、入試の漢文には何の役にも立たない(文法が崩れているから)、まして、入試の日本史にもまったく役に立たない。みんなぶーぶーいっとりました。
でも、これ、面白かったです。苦労して読み進むと、当時の人物が生きてくるんですね。もちろん、自分の日記ですから、美化もされているだろうけれど、道長って、傲慢で策略家ではあるけれど、けっこう尊敬に値する為政者だったのではないか、と考えはじめました。
蜻蛉日記(道綱の母)は、息子の道綱が、異母弟の道長にしてやられて出世できないくやしさを書いた部分が多々ありますが、道長の日記を読むと、様相は一変します。どうも、道綱は、相当にどうしょうもなく頭が悪く、文章も書けず、宮廷のしきたりも理解しなかったらしい。道長も、道綱が儀式をしくじったときに、「至愚又至愚也」と、癇癪を起しています。しかし、決して滅ぼしたり放逐しなかった、権謀術策の道具に使うためもあっただろうけれど、なんとなく、それを超えた、肉親としての愛情のようなもを感じたりします。また、大鏡に描かれる、伊周との争いも、徹底して追いつめて滅ぼす、という感じではない、逃げ道をちゃんとつくっておく、という腹の太さを感じます。
大鏡は、原文にあたる余裕なく、現代語訳でしか読めなかった記憶があります。
蜻蛉日記は、けっこう省略が多く読みにくい文体だけれど、文章がきれいで歌がすばらしいで、断片的に読みました。
そんなこんなで、この時代に興味を持ったところで、源氏がはまったんですね。
紫式部日記に、道長の誘いをはぐらかすような一節もあり、光源氏は道長がモデルという説もありますしね。
前回の音楽に続き、しょうもない書き込みで申し訳ありません。昔からこんなことばかりやっているから、理系でありながら文系の職場を転々とするのでしょうかね。
地頭って?さん
>各校、教師がそれぞれカリキュラムを決めて自由に教科書を選んでもそんなに変わらないでしょう。
いやいや、私学だとそういう学校ありますけどね、あたりはずれ、すんごいですよ。
深度も進度も違いすぎる。
やる気がある先生ほど、教科書なんて最後まで終らなくなっちゃったりして。
教師側もプライドをもてるそれなりの名門校だってそうなんだから、
そうでもないところは…、こわすぎです。
遺伝様のおっしゃる通りです。
本当に「こ・わ・す・ぎ・た」体験しました。
入学して2年目で、塾に入れて乗り切りましたけど。
察知出来なかった保護者は、もう先生、学校の悪口言うしか、気持ちの持って行き場が
ないって感じでした。
特に英語は注意。
学校任せにしない事です。
皆さんこんばんは。
先の投稿はあんまり面白くなかったでしょうか。
PSPで僕が言いたかったことはそれ自体の善し悪しが最優先されるべき要素ではなく、
今の10代の感覚ではそれが当たり前になっていて、
それに即したコミュニケーションなり誘導なりが必要だと言うことが言いたかったのですが。
僕自身は現在サーバ管理もしていて(IT企業みたいですが、)
それ自体が底の浅い知識であったり労働だとは全く思いません。
底の深さというよりは、幅の広がりに可能性を感じます。
この辺り、情報の編集力(=多分今の時代で要求される独創力をなす大きな要素)が
問われる時代になったところが出ていると思います。
また前々から聞いてみたかったのですが、
皆さんは最近のセンター試験や東大・東工大辺りの過去問を解いてみたことはありますでしょうか?
実際にやってみることで、ここで語られている感覚とは大きく乖離したものが、
もしかしたら自身の中に訪れるかもしれません。
全くスレッド読んでないので恐縮ですが、
量的さんの文理の話、企業人さんのゆとり教育の話、
遺伝さんの学校ごとのカリキュラムや教材の話に、
(息抜き程度に読んでいただければ良いのですが、)少し乗っかりたいと思いました。
僕自身、大学受験までは理系、
大学入学後は文系(といってもルベーグ積分くらいまでは行ったのですがやはり大変でした)なので、
割と頭の中で全ての教科が混在しており、また、ある程度相互につながっているような自覚があります。
(さすがに博士レベルなんて到底及びませんが)
ルービックキューブのアルゴリズムが偶置換・奇置換で説明できたり、
そんなこともありました。
僕自身はゆとり教育が意味するものが、完全にフリーな時間だったら良かったと思うのですが、
そこで代替手段として出てきたものが、
例えば(公立自体を否定していません)公立中学の部活の必修化は、
ちょっとそれは違うんじゃないかと思えるものがあったのが痛恨だったのではと感じています。
気力・体力ともに吸われ、それが成果につながれば良いでしょうが、
公立の先生の場合移動があるので学校ごとの文化が根付かないデメリットはやはり大きかったんじゃないかと。
資本投資という面でもやはり公立は私立にかなわない。
カリキュラムの私学ごとの違いは、僕はいろんな学校の学生をみているのでよくわかりますが、
本当全然違います。
文系に圧倒的な厚みのあるJG、理系に強い東邦大東邦、
ライオンが崖から我が子を突き落とすような(印象を持った)慶應志木、等等・・
同じ教材を使っていたとしても使い方が全然違うので期待される効果とデメリットも全く違います。
そして、例えば大学付属の学校の場合、全部が全部ではないでしょうが、
例えば大学からおりてきた先生は結構脱線の度合いが激しい傾向はあるようです。
ゆとり教育の悪化に拍車をかけたものの要因の一つには所得格差も大きな要素だと思います。
そしてそれが修正されていないということは財政の資源の再配分機能(教科書的な言い方ですみません)
も、やはり働いていないのかもしれません。
これを書いてて少し頭をよぎったことが3点あります。
・i-bankにはsell side と buy side があって、両者で要求される能力には大分違いがある、らしいこと
・いつかイチローが糸井重里に、
「そんなに稼いで何に使うんですか?」
と質問されたところ、ずっと無言であったこと。
・高齢者の資産が蓄積され、お金が循環していないこと。
eduをごらんになる方の多くは、上の方の表現に分かりにくいところがあるかと思いまして。
i-bankとはinvestment bank、直訳すれば「投資銀行」ですが、普通の日本語表現では「証券会社」と大体イコールと考えていいです。
sell sideというのは機関投資家や個人投資家に株の売買を勧める人たち。売買手数料が収入になります。
buy sideというのは機関投資家のほうですね。自分で株の売買をして、売買差益や配当で儲けるわけです。
いわゆる証券会社の典型的な商売形態はsell sideですが、大手の証券会社は大抵子会社として運用会社(即ちbuy side)を持っています。
これから世の中を渡っていく個人が身につけるべき能力はbuy side的なものでしょうね。




































