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私立中学の価値

【1934980】
スレッド作成者: 自然体 (ID:KR1jc1G02kE)
2010年 11月 28日 08:25

この不景気の中、希望しない私立中学へ無理して行かせる道理がないと思います。
公立中学という保険もあることだし。
皆さんどう思われますか?
我が家の場合、子供はまだ小4ですが、受験希望は以下の通りで、それ以外の学校なら公立中学へ行かせるつもりです。
新興系、成り上がり系、スパルタ系、予備校風系は基本的にパスです。
希望の私立中学に合格しなかった場合は、公立中学から県立トップ高校を目指します。


2/1 麻布か開成(武蔵もOK)
2/2 なし(栄光、聖光は良い学校だけど遠いので)
2/3 早稲田か暁星(筑駒は学区外なので)
2/4 芝

【1964577】 投稿者: 凡才   (ID:3LvSYPog7Dk)
投稿日時:2010年 12月 28日 01:16

確かに原書に傾倒する事は、大切かもしれない。

しかし、自分の人生において、原書は存在しない。

何故なら、親とて子供とて、一人一人違う人間であり、存在意義も違うのであるから。

人間が生きていて、関わっている大部分は、日常の生活である。

一つの事に傾倒しすぎる事は、とても危険である。

情報を利用するのは良いかもしれないが、啓蒙するのは苦手である。

中学受験の勉強も啓蒙するのでなく、利用すれば良いのでは。

【1964620】 投稿者: そうそう   (ID:/YUFXdY7yu.)
投稿日時:2010年 12月 28日 07:47

優秀なお子さんだから優秀な私立に行く、環境や校風が良くて私立に行く、あまりにひどい公立しかないから私立に行くというのはあるでしょう。賛成です。その場合うちもそうします。残念ながら私の母校は遠いので娘を通わせられませんが。

【1964815】 投稿者: 知的頭脳集団を目指すなら   (ID:4o3wqWLqUZc)
投稿日時:2010年 12月 28日 12:11

駄文になってすみませんが、ちょっと「本当の勉強」と@「点取りの勉強」って何、を考えてみたいと思いました。それと、「私立中学の価値」そのものについて想うところも少し書きます。


・・・・長文なので、興味ない方々はスルーでよろしくお願いします。
テーマの割にあまり時間かけておらず不備名点をご容赦ください。



【本当の勉強と点取りの勉強、どちらも大事?】
わたしは点取り(=他者の目に見える評価軸)と本当の勉強というのは、大多数にとっていつでも「両にらみ」ではないかなと思います。


<補足>
4つほど例を考えます。例えば、大学でも結構、普通にあります。東大では2年で進学振分けという制度がずっとあり、0.1点までのぎりぎりの勝負になっています。昨年進学生から進学振り分け範囲がかなり広範になっているそうです。

1)文系の例では、「猫、文II」と言われた文科2類でさえ、クラスの2割(クラスによりそれ以上)が語学/理系科目を含む教養科目といわれる科目の平均点の評価軸で、経済学部に行けないで、文学部や教育学部に行かないと行けない人が出るという熾烈な競争でした。(75点くらいとれないと行けない。この水準は、それほど高く無いかもしれないが、うかうかしていると取れない点数です。)面接で情状酌量とかではなく点数一本で決まります。一方、経済学部のゼミなどでは面接もありますが、人気のゼミは5倍6倍になります。そこに入れるかは基本専門での勉強とポテンシャルですがハイレベルの集う熾烈な競争です。


2)理系の例では、多くの学生にとって大学院入試(修士)がひとつ重要であり、大学受験よりも熾烈なケースがある。(*)定員割れ云々といわれますが、徒弟制度的な面が強い狭い社会が始まるのは大学院。院試に真面目に取り組まない学生は、そいういう了見・心がけ、と見られることも人の常。 


3)大学院入学後、、一般に「自分の好きな研究」「最先端の研究」ができるまでには、教授・准教授にいくつか先端テーマ”分野”を示されて、それをまずはやる日々からのスタート。自分で選び取った形にはなりますが、特に実験系の研究室では、博士過程の学生の論文構成上で必要なものを、「習作」としてやらされることもかなりあります。また、教授の大テーマの中の小テーマから取りかかることもしばしばある。それらをできるだけ完璧に近くこなすことがステップアップに繋がる。「他者からの評価」でもあります。理学系、工学系、農学系では良くあるケースです。


4)会社の例でも、研究者というのはお金を食うことありきで見られる。ある意味は「おみそ」からはじまります。(コストセンターの一員として捉えられるということ)しかし、優秀であるためには、「おみそ」から卒業して、いずれはビジネスに貢献するおと、そして、貢献するValueを一定継続して出せるかが「他者の評価」になります。これは学校歴より、徐々に個人のナマの力になっていきます。


自分の知的好奇心を目指して探求することが仮に「本当の勉強」としたとしても、それらと業務で求められているモノとは一致しないことだってあります。さらに会社では、それ以外にはんこを押したり、予算を立てたり、会社がOKできる計画を出したりの膨大な書類作りも無難かつスピードを持ってこなすことがひとつの評価軸。自分やグループの業績にならない支援的業務も相当量あり得ます。それでも若いうちは特に、苦労して折り合いはつけこなさなければならないです。これらができないと、その人が思う通りの計画での自由度は得られないというのは、ある意味で当然の仕組みだと思います。


これらの4つの例はつたない例ですが、2つの評価、ここでは、「本当の勉強(=その専門で本当にできるという評価軸)」「見かけの評価軸(=他者からの定量的・定性的な評価軸)」としただけでも、両方を対立させて、片方を完全に捨てるというのは、実際には簡単ではないことを示していると思います。他者評価だけを刹那的に短期のヴィジョンで上げるだけでは、中長期には評価されない、という点は、むしろ、ひとつ大きなポイントでしょう。


若いうちには、「本当の勉強というものをどのように正確に捉えるかと同じように、熟慮の上で点取り・評価について配慮することは、上位0.01%位までの価値観としては重要で、短期、中長期という視点とともに大事だと見ます。(それ以下の上位層で優秀だと、天才とは言わないまでも十分優秀で違う価値観はあると思います)


・・・さて、本当の勉強にとって、点取りは不要、というのは第一感とても「かっこいい」表現なのですが、自分を振り返ればそういう面もこなしてきて来ざるを得なかった、と思います。他のひとでも、よくよく考えれば、現実的対処を実際はしているのではないかと気づくこともあると思います。<ご本人が意識していないだけかもしれない。>

【1964816】 投稿者: 知的頭脳集団を目指すなら   (ID:4o3wqWLqUZc)
投稿日時:2010年 12月 28日 12:13

後半部分です。


【関連で、では翻って、保護者の目線で考える中高の過ごし方のひとつのイメージとは?】
 子どもの受験を考えると上記のようなことは前段として考え、それでどうしようか、となりますね。知的頭脳集団を目指すということで、ある程度イメージがあれば、どのような分野でも確かに知的な要素はあり、全てが泥臭い仕事だというわけではないと思われます。(=知的労働がメイン)、しかしながら、両面をともかくもそれなりにこなすこと、これが、社会人のスタートポイントになるものと言い切って良いと思います。学力で選別して学力で測られる大学受験で生徒を送り出していく訳ですが、中高一貫の先生方は、学校により少し違いはあっても、人間的な総合教育を目指していることについては重視していることが良く判る。


<補足>
 おそらく、言われたことをまずは素直に受け止めて、粘り強く、自分なりの興味を持って続けるというのは、頭がよい、というだけではない大事な資質だと思います。会社でもこれは同じ。これに協調性とか、ひと(特に同僚・目上)と同じ目線で考えられることが大事です。ただ、これだけだと、どなたかご指摘の通り、創造的には育たない場合がある。なぜなら、言われたことをこなす、過去の事例だけを理解することは研究の前段で必要な勉強、あるいは必要な資質で決して、研究そのものではないからです。ただし、一方で、勉強をしたから創造的ではない、などということはないと個人的には思う。勉強を広範囲に深くすることで、領域が違う分野も地底が繋がっているのがわかり、全体を様々に眺めていることも見えてくる。しかし、多くの中高一貫校がやったり、テレビでも紹介された京都の公立高校が始めたような「探究科」、十分な準備を要求とフォローを行うする「卒論」「研修旅行」がおそらくそこをカバーするカリキュラム例だろうと思います。職業意識啓発も、例えばOBの講演などもいいですが、単に一人一人に長い話しをさせるだけでは、多くのニーズをカバーできない(****)かもしれない。


 では知的頭脳集団を目指していくなら、中学高校で何を学ぶべきかの例は具体的二何か。については、例を挙げるしかないと思います。既に書いたような他者あるいは社会から見た活動の「価値」に目覚めたり、人の偉業に真に「感動」をしたり、自分の存在の小ささ、限りある人生を想像したり、他者をリアルに感じたり(ひとの痛みをわかったり)、複雑な中から大事な、外せない「論理」を見つけ出したり、さらには、自分の側で、難しいことを抽象的にではなく実感を持って表現を試みたり、自分の「感動」を表現してそれが他者にも評価されるものであったり、友人からの人生全般に資する大きな刺激を受けたり、そういう数多くの経験だと思います。学科の科目というのは、便宜的に別れていてそれぞれ効率よく学べるようにできているが、それをまず否定するのではなく受容した上で、上記のような連携した要素が加わっている。いわば縦糸と横糸のような部分の横糸(***)を充実させるということではないかと思っています。会社で反論ばかりしてやらない理由をさがすだけでは、知的集団と言っても、KYになりがちになります。ここぞというときの自己主張などの駆引きもさじ加減も、社会人以降というよりも、自分の実力に見合って行うというのは、仕事全体の価値・段階を見る力ですが、実は大学生ではなく、もっと若い頃から徐々に学ぶ大事なモノだなと個人的には感じています。


わたしは、受験があるから、本当の勉強ができない、とこどもに言う大人は、言われた子どもの方が、学校世界のみならずもっと広範な場面で苦労すると思っています。それを言い訳にさせてはいけないと思います。なかなか社会的な評価軸の設定が緩み、また本当の勉強ということからのモティベーションとして、却ってイメージが難しくなると感じます。(本当の勉強というのが、数学者や物理学者、天恩学者や宇宙飛行士などの限定イメージ<中学生の偉人伝レベル>になってしまいがちだと大きな弊害も先々ある。科学教室だけで興味を喚起しすぎるアプローチも議論の余地有り。ここでの議論ではないですが)


これは、逆に「点取り虫になれ」と同じくらい、現実味がなく、中高生の若い世代にとって片手落ちのアドヴァイスの仕方に感じます。的確なアドヴァイスのあとは、中高生が自分で考えれば良いのだと思います。中高生といってもかれらは、課程の中で人間関係も経験しているから、その程度の内容は普通、容易によくわかるように思います。先進国の中で日本は、そういう動機の部分が弱いことは気になるところです。


さらに動機だけあって、やらない学生、これもまた始末に終えないでしょう。難関大学では、理系の基礎のない学生を推薦やAOでとってきたことに大変な危機感があり、今や、推薦とAO入試は縮小の機運で、学生も受験を経由しているかもチェックされています。勉強の習慣を持っている、時間を掛けて勉強して応用できる知識をしっかり持っている学生は、前提だからです。


【採用面接をした感想など】
最後に感想ですが、企業で採用面接をお手伝いをして感じるのは、特に相手から見た価値をイメージして話ができる学生がちょっと少ないな、と思います。また、大学でのリクルート指導は、見かけ上盛んなようですが、企業情報のINPUTと面接のスキルアップだけに留まるように見える。聞くところによると、採用側も面接官の練習のために、学生のバイトを雇ったりするようです!すごい世界ですね。


わたしは博士課程のころでは、もっとのんびりしていて、博士は採用されにくいので、採用の予定のない企業にも沢山アタックしましたが、君は面白いから会ってみようかと言われた時には、「わたしをトルと如何に長期でプラスなのか、ユニークな貢献ができる可能性があるかの話」に絞って、数分をイメージして臨みました。時代的に博士の採用予定がなくてもメーカー・金融・コンサル系とも、幸い相手から断られたことはなかったですが、今考えてみても、(「自分の価値」とともに)「相手にとっての価値」の発見とも、多少無縁ではなかったようにも思われます。やはり、優秀か、ということと、ニーズに学生がマッチするのか、は評価の両輪(*****)です。



(*)わたしの場合でも院試は一生を左右するのでさほど良くない頭に気合いを入れて、大学受験の比ではなく長時間集中して勉強をし結果を出しました。


(**)
例えば、偉大な人の中では、ガロアは群論的な思考を先駆けて見いだしました。しかし、あれほどの頭脳でも大学相当の受験に偶々2度失敗し落第もした。論文はコーシーの評価を求めたが彼は論文を紛失するなどの不運もあった。また、才能は結局のところ、生前には高い評価をされなかった。本人はアルコール中毒になり、自殺未遂を起こすほど自棄暴投になっていき、人生の最後は決闘により死亡。5次以上の方程式に解析的な一般解がないことを示し、群論の始祖という数学史上の価値を自分でも認識をしていたが、他者からは社会的な評価を得られず二〇歳で人生の幕を閉じた。このような人生に英雄的あこがれを持っても、自分のリアルな人生でこのように生きようとする人は、自分の才能を顧みないと行けないため(=常なる才能では滑稽ということになりかねず)かなり希だろうと思います。



(***)
こう考えた場合には、私立中学の価値とは、なんぞやと考えると、縦糸だけではなく、縦糸+横糸の全体性が大事だ、と言えると考えます。その全体的な教育が価値を持ち、それらが必要なこどもも、全員ではなく、優秀層でも万人向け教育ということでない。自ずと学校の立場では学力面の達成度やポテンシャルで層別して選ぶ、つまり最低の要求水準がでるのも尤もなことでしょう。



(****)
わたしは個人的に母校で、若い世代に役立てばとの想いで、ボランティアでシステマティックな企画を目指し実践はしています。企業研究者として”傍観者”でいないように気をつけています。(道半ばでありますが)


(*****)
 今の中高教育がそもそも、欠点を持つことはあります。人材が流動化して競争が激しく、企業・括弧上はしばしば労働がカテゴリー別に集約されて、能力のある人々はしばしば、プロジェクト的にマネジメントされて力の発揮を来されてきている。研究と言っても、基礎研究だけ、開発だけ、という分野の深掘りだけよりも、企業価値(金銭的な貢献)までを視野に入れた発想が開発者そのものに期待されることが基本。(企業側の学生へのニーズも、その点を含めて、以前より極めて具体的がことが多い)その意味では、学校の先生と企業人の発想の決定的違いを埋める作業も緒に就いたところでしょう。
 一方、大学は、学際的学科であったり、カタカナ学科にしたりと看板が変わっています。しかし、中身が縦串を中心に古めかしく深く追求する部分、的が絞れないで帰って悪くなっている、等が残る所もある。それだけでは、学生教育面では熟知する分野が依然として極めて狭くなり、あるいはニーズにマッチしないで過ごしてきたりで、企業から見て学生さんに応用展開力が期待しにくい感を持つ、等ということはある。教育の中身に手をツッコウムような議論ですので、ここでの話ではないですが。なお、これらは勉強しすぎで応用力がない、の議論とは少なくとも違います。

【1964839】 投稿者: 知的頭脳集団を目指すなら   (ID:4o3wqWLqUZc)
投稿日時:2010年 12月 28日 12:46

超駄文に付き合って頂いた方、・・恐縮です。


最近、英語について考えることがあるのですが、「銅メダル英語でここまでしゃべれる」という記事をわたしの古くからの知己が、日経BP誌に掲載していますが、とてもうまい表現で英語の勉強を、プロの視点(伝説的投資家)から語っています。この記事はとっても印象的でした。こどもにも読ませました。


記事の著者は、「必要な手段としての英語」を見つめています。わたしもこのような考え方はとても役立つな、と同感です。


・・英検2級(高校卒業程度)で十分である。この点数は、100点満点の英語の世界で言えばわずか20点未満で全然英語ができるレベルでもない、しかし、役立てることができる、という話からスタートしています。・・多くの人が「絶対的な存在としての英語」を見ている中で、ニーズを満たすにはどうするか、とそのアプローチを大変判りやすく書いています。


 大学受験生はどの科目も初めは、専門家から見れば、銅メダル英語、銅メダル物理、だったりすると思います。大学受験はほんの勉強の入り口にすぎないし必要な勉強量も少ない。でも、将来やらなければ行けないことは実際はとても多い。目標は実際に高い。(→これは、競争的環境だったり、相手先ニーズであり、最終的に自分で勝手にレベルは下げられない)


 だけど銅メダルから入って、銀メダル、金メダルを目指していくしかないことが多い。目標の見定めをしてそこで、上るしかない訳ですが、都度漫然と勉強していると点取りが目標になってしまい、アップアップしてしまいます。実際の場面に立ったとき、如何にすべきことを選び、大事なモノを選びとるか、精神的にめげないで上がっていけるか、この記事の著者はその考え方教えてくれました。もちろん積み上げのあることを前提しての上での議論です。

【1964888】 投稿者: 老眼   (ID:fHoScemHzLM)
投稿日時:2010年 12月 28日 14:00

大変興味深く読ませていただきました。
「本当の勉強(=その専門で本当にできるという評価軸)」と「見かけの評価軸(=他者からの定量的・定性的な評価軸)」
の設定は、対象を(社会人から)小学生まで拡張できるものです。
ただ、小学生を対象にする考察の場合に、
「その専門で本当に『できる』という『評価』軸」
の『できる』と『評価』という表現は、果たして妥当でしょうか。
できる/できないに価値を置くこと
他者の評価に価値を置くこと
これらを「本当の勉強」につなげていいのか
ぼんやりとした疑問を感じます。

【1964924】 投稿者: 根本的   (ID:wwmfnzaRenU)
投稿日時:2010年 12月 28日 14:42

>研究者としてもそうでしょうし、サラリーマンだって今どき自分の頭でオリジナルな考えを持てない人は、使われる立場から上には行けないでしょう。


 これはその通りでしょうね。高いオリジナリティを生み出す能力と、試験で高得点をとる能力とは異質のものだということ。これからの日本においては、高度に「オリジナルな考え」をもてるひとこそが、より重要視されるべきだということ。


 ただ、これらはどちらも知的な能力の一種であり、全く関連がないとは言えないでしょう。この二つの能力の間には、やはり「正の相関関係」がひろく認められると思います。つまり、研究者であれサラリーマンであれ、オリジナリティの高い人材が高偏差値の大学出身者のなかからより多く出てくるという傾向は、ある程度はみられるのではないでしょうか。ノーベル賞だって、最近は東大京大以外にも拡散して来ているとはいえ、やはり上位の大学から順番に増えているという事実は否定できません。


 ただし、オリジナリティと言ってもその高さには階層があって、より低いレベルのオリジナリティからより高いレベルのオリジナリティに仕事の質が上がるにつれて、試験の成績とオリジナリティレベルとの「相関関係」が弱くなっていく(相関係数が低くなっていく)傾向がみられるように思います。オリジナリティレベルの低い仕事においては、受験偏差値や学生時代の成績のいいものほど仕事もよくできる。ところが、あるレベル以上の仕事になってくると、試験の成績とは無関係に急速に頭角を現す人間が増えてくる。私にはそんなふうに思われます。


 



 

【1964943】 投稿者: 視点   (ID:4b.FmqGfp3Q)
投稿日時:2010年 12月 28日 15:09

基礎学力は必要ですから、優秀な研究者や社会で活躍する人材は、一定レベル以上の大学からでる。
しかし、基礎学力を越えて、小学校から塾依存で受験勉強に特化してきたような受験秀才からはでない。
そういう傾向があると思います。


安藤忠雄のように、学歴はなくとも独学で極める人もいますから、あくまで傾向です。

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