在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
私立中学の価値ーゼロ
内容は、私立中学の価値から続く話題です。教育全般です
条件は1つだけ・・「最初から、誰かを、無視する意図がある人を除く」です。
畏れや信仰についての昔の書き込みを再掲します。
人知の境界で世界を分ければ前者が管理できるもの、後者が理屈を超えたものです。
教育は分かるもののみの世界、議論も理屈だけの世界、したがって教育が絶対、議論が全てのようになっては困ります。新しいこと、未知のことに対しては怖れや信仰、あるいはトキメキ、萌えといった自然な心の動きが大切だと私は思っています。
言葉は違いますが後者の心を動かす何かが私の中での教養です。
同じ言葉でも不評か?好評か?、強要に感じるか?教養に感じるか?
核の力を武器にするか?エネルギーにするか?
どうせなら価値を生み出す、人が集まる、そういう場所を作りたい。
私は最近起業したのですがこれが自分の使命のように感じています。
流行病にかかってまして(家族で)。
ちょっと見ぬ間にスゴイことに・・・・。
>私は 教養とは「あっても邪魔にならないもの」って感じかな。(地域、時代様)
↑これに共感しちゃうんですよ。
■教養とは『 』である
教養とは「超自我」(エゴの親分)かなって。
教養がある人 = 超自我をエス(快感)がコントロールしている状態
教養がない人 = 超自我(エゴの親分)がその人を支配している状態
超自我は一般的に親、教師、社会から「~であるべきだ」と植え付けられた倫理の塊。
超自我に支配された人の学びは、どうしても「抑圧的」学びになる。
エス(快感)と超自我(エゴの親分)のバランスがあれば、自発的学びになるんでしょうね。
教養=知識・・・納得できます。
「芸術に教養が必要」と断言する人は、快感を抑圧し、知識を優先する。
教養=「あっても邪魔にならないもの」とは、仰る通りかなと。
あっても邪魔にならないものをエス(快感)がどう解釈するのか・・そこが大切なのかも知れません。
うわあ・・・
すーっかり乗り遅れて置いてけぼりで茫然自失・・・
「教養」について、皆様の書き込みのひとつひとつにうんうん、そうよそうよ、わーうまいこと仰る!
などと感じ入っている間に、自分ならではの考えが、なんだかわからなくなってきちゃいました。
(激しく自己嫌悪)
全く、皆様の言葉がそのまま、皆様の教養の深さを表しているように思います。脱帽。
ほんと、ネタがなくなっちゃった感があるんですが(笑)あえて書かせて頂きますと
教養とは「ひとの考えに傾倒し過ぎず、バランスをとりながら自分の糧にできる軸」のようなもの、です。
(今の私に一番欠けております。 苦笑)
私が「このひと教養があるなあ。」と感じる方って、ちょっとした言葉の端々や、雰囲気、
物腰などに立ち止まって「おや?」と思わせるようなひとが多いです。
そしてやはりユーモアがあって、周囲を和ませる、このひとのそばにいれば、自分の時間が充実するな、
と思う人。
周りの人間に、単なる「知識の披瀝」ととられるか。「教養」と思わせるか。
そんなところも全部ひっくるめて、「教養」なんじゃないでしょうか。
教養シリーズ第2弾・・
『教養本を全部読み、中身を全部理解しているにも関わらず、右に曲がってしまう人(P647の2つの道の話です)』は・・・教養のない人
教養を理解しているだけじゃダメだし、使い方も間違っていてはダメという、2つの意味を込めました。
こう考えると教養とは、そこに「人への思い」があって、初めて本当の意味での教養になるのかなと思いました。
「人への思い」があるので、それを受けたものは、教養を教養としてそのままスッと受け入れることができ、「心が動く(=教養があるなと感じる)」でしょうね。
「人への思い」がないと、それは単なる豆知識みたいに聞こえて「心には響かない」のかもしれませんね。
そこで、
教養とは、
『知識+思い』
にします。
ま、問題は、その教養なるものをどうやって手に入れるかですね。
この問題は、桜宮がどうの顧問がどうのなんて小さい問題じゃないってこと。
今後の日本社会におけて、暴力というものの位置づけをどうするかという大問題。
たとえば、ヤクザとか、同和とか、あるいはその他の反社会的暴力集団ね。
これが放し飼いになっている。日本においては。
橋下さんはそこに手を突っ込もうという覚悟があるんだ。
たいしたもんだね。
追伸
子供の「人への思い」の部分をどう育てるか・・。
難しい課題です。
中学受験反対の人達は、中学受験は「人への思い」が育たないし、むしろ、足かせになると考えているでしょうね。
受験=競争=他人との戦い=人を蹴落とすもの、と考えているのでしょうね。
でも、私が感じた受験は、受験=競争=昨日の自分との戦い、なんですよね。
そして、ライバル(好敵手)=自分を引き上げてくれる目標、なんです。
だから、「受験」と「人への思い」は、両立できるのではと思っています。
とはいいながら、現在、どうすれば上手に「思い」を育てられるかは、まだまだ模索中ではあるのですが。
■通りすがり2さん
>教養とは、
>『知識+思い』
この「数式」は、わかりやすく・・確かに・・と思えます。
「思い」とは何か?を各人が、いろいろ考えるのでしょうね。
■信頼感さん
>教養とは「超自我」(エゴの親分)かなって。
>教養がある人 = 超自我をエス(快感)がコントロールしている状態
>教養がない人 = 超自我(エゴの親分)がその人を支配している状態
ほんと、信頼感さんらしい、解釈です。
>教養=知識・・・納得できます。
>「芸術に教養が必要」と断言する人は、快感を抑圧し、知識を優先する。
ロビン・ウィリアムズ主演の映画『いまを生きる』
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規則の厳しい全寮制のエリート高校。生徒たちはその中で、毎日抑圧された生活を送っていた。そんな時に新しく赴任してきた型破りな教師。彼は「教科書なんか破り捨てろ」と言い、詩の本当の素晴らしさ、生きることの素晴らしさについて教えようとする。初めは戸惑っていた生徒たちも、次第に規則や親の期待に縛られない、自由な生き方を望むようになるが……
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その型破りな教師が来るまでは、詩の授業では、詩の評価を「数値化・面積化」してその優劣を判じようというものだった。ことを思い出します。




































