女子美の中高大連携授業
生き残る中高一貫私立はどこか?
桐朋が今年東大現役一人だそうだ。駒東も東大が減少して大騒ぎしている。
少子化と公立の復活で今後中堅私立中高一貫校はますます大変になるだろう。
環境を買うのが私立受験の大きな理由と言っていたがやはり第一は進学実績(男子の場合)だっということが明らかになった。伝統だけでは駄目だと言うことだ。進学実績が下がれば凋落校と認定されてしまう。
今後、桐朋に続いて凋落する私立学校はどんどん増える。逆に内申がどうだ、教師の質がどうだ、公務員に子供を任せられないなどと言っていた私立親も日比谷や小石川、横浜翠嵐の実績を見れば考えを改めるかもしれない。
悠然と構えていられるのは昔からの名門校、麻布、武蔵、学習院、暁星、成城、成蹊などで高校入試をやっている開成は今後劇的に(日比谷に流れるので)東大合格者を減らすかも知れない。学芸大附属に続いて開成凋落も視野に入ってきた。あと5年もすれば東大100人を切るのではないか?
学習能力と研究能力が個人レベルで等しくないことは多くの方の指摘通りなのでしょう。
一方、大学間の予算配分や学生の選抜においては、集団レベルにおいて
学習能力と研究能力には正の相関が有ることが制度設計の前提だと思います。
正の相関があるけれど、非常に強いものではないから、旧7帝大+αの
数多くの大学に研究予算が配分されているという理解です。
かなり容易に入れる大学もあるので、「研究したい気持ちがあるなら」
しのごの言わずに北大でも筑波でも入れるところに入って頑張るしか
ないのでしょうね。今の制度のもとでは
ここで論じられませんが、「学習能力と研究能力の正の相関」を否定する
知見をどなたかお持ちでしょうか?
想像しにくければ、自分より明らかに勉強ができない人たちを思い出して
ください。「あなたの研究は、彼らがやっても変わらない。彼らのほうが
うまくやるだろう。」そう言う人が居たら、どんな話をするか?
マスターとドクターにもよるんでしょうけど、
>「あなたの研究は、彼らがやっても変わらない。彼らのほうが うまくやるだろう。」そう言う人が居たら、どんな話をするか?
上手くテーマを切り分けて、その人のキャパの範囲で達成感もてる様な交通整理は手伝うと思います。卒論〜修論ならそれで十分だと思いますし、そこからそのまま先に進むか、違う事・違う進路に進むかについては、結果を出した後、当人が決めれば良いことであろうかとも思います。
もちろん、研究室に所属するということ、ある特定分野に取り組んでみるということに他ならない為、そこから先のキャリアパスは豊富な場合、そうで無い場合もあるかと思います。ですから、非常に一般化が難しい気がします。私も自分の経験からしか意見できないです。
>「学習能力と研究能力の正の相関」を否定する知見をどなたかお持ちでしょうか?
これを踏まえて、上への私見ですが、学習能力は研究能力の必要条件であって十分条件ではなかろうという所までは言えるかもしれないのですが、否定する意見は聴いたこと無いです。あれば見てみたいですね。研究者が必ずしも教育者では無いことも多少は影響しているかもしれないですが、ちょっと考えがまとまらないので、他の方のご意見私も窺ってみたいです。
>「研究したい気持ちがあるなら」 しのごの言わずに北大でも筑波でも入れるところに入って頑張るしかないのでしょうね。今の制度のもとでは
そうですね。以前呑気さんが書かれていたと思いますが、学生寮の様な環境を充実させるのも良いかもしれないですね。学ぶ意識がある、やりたいことがはっきりしているお子さんが、例えば、首都圏在住として首都圏難関は難しくても、どこかでやりたいことに打ち込む後押しにはなると思います。あるいは、地方在住のお子さんが、地方から出て来易くなるかもしれない。
これとは別に、研究者を如何にそだてて行くべきかというのは、制度論だけでなく、研究者自身にも求められることでしょうから、自分自身論点整理できないです。個人の立場からも、制度の立場からも語り得ない部分がある気がしました。
米でも大学と大学院は違うよ。
大学入試を院試と同じにして研究持続性の能力を見るべきという意見の人は、大学へは研究者になる人だけが行くべきと言いたいの?アメリカの大学でさえ全然そんなことないけど。アメリカの大学院だと兎に角成績のいい人を欲しがる成績主義だから大学と大学院は違うんだよね。大学は地域や学校で評判のいい人(勿論学校でも優秀者)をとり、大学院はめちゃくちゃ学力超優秀者を欲しがってる。
突き詰めていくと、研究者としての情熱、なんだろうね。俗物には無理。
それが必要なのは研究者養成課程だから、院だね。学部レベルは、医師免許が欲しいから医学部、弁護士になりたいから法学部、いい会社に入りたいから経済学部、で全く構わない。
そういう将来の方向性なら、新しいものをクリエイトはしないけど与えられたものをきちんと勉強する能力があれば十分。
学力超優秀者というのが、どうしても日本のイメージと欧米では違いますね。
まだまだつい最近に至るまで、日本は伝統的中国科挙制度の試験?のように何が出るかわからないこと、いろんな知識、幅広い暗記モノになるべく正確に速く答えられた人、、、いわゆるテストの点みたいなところありますね。
ようするに、学ぶ力がいかほどあるかは、見れない、見方も知らないのかも。
実際、面談、口頭試問、論文、口頭試問で、いかにこの学部、院、で学ぶにふさわしいか、学ぶ力を持っているかわかるはずです。これが過去の学んだ力(当然 いらないわけではありません)よりも優先されることがのぞましいと思っています。これが学力的にも超優秀性です。
>>「学習能力と研究能力の正の相関」を否定する知見をどなたかお持ちでしょうか?
>これを踏まえて、上への私見ですが、学習能力は研究能力の必要条件であって十分条件ではなかろうという所までは言えるかもしれないのですが、否定する意見は聴いたこと無いです。あれば見てみたいですね。研究者が必ずしも教育者では無いことも多少は影響しているかもしれないですが、ちょっと考えがまとまらないので、他の方のご意見私も窺ってみたいです。
研究者の資質は、知的好奇心から、答えがあるかどうかもわからないこと、価値があるかどうかもわからないことを、時間無制限で追求していく能力なんだよね。
中学高校と、知的好奇心から、場合によっては受験なんかと関係なく思考してきた学生は、その能力を向上させる。
ところが、点数のために答えがある問題を時間内に解く場合、その動機付けは点数なんだよね。
そんな勉強に特化すれば、点数がつかないことには興味がなくなる。
そもそも答えがあるかどうかもわからないことなんて考えだしたら受験勉強にはマイナスだしね。
だから、小学校低学年から立ち止まって答えのでない哲学的な思索をすることもなく、点数のための勉強に特化してきた場合、その勉強体験と研究能力の間には、負の相関となることになる。
和田秀樹の暗記数学なんてやっていたら、研究不適応になるのはあたりまえ。




































