女子美の中高大連携授業
「暗記から探究へ」
「暗記から探究へ」
週刊エコノミストの表紙にこの文言が躍る日がくるとは!
2023年の出生率が過去最低を更新したと発表されました。人口動態が変わると市場環境も変わります。運をつかんで成果に変えていくために、子どもたちに必要なマインドセットについて考えると、早く多く問題を解く作業的な情報処理や最短で効率的なルートを得るとか、もう古い。風向きが変わりつつあるのを感じる。
「教育」とは何か。「学力」とはなにか。こうした定義が人によって異なり、もはや無視できないレベルに差がひろがっているように感じる。共約不可能性である。大学進学者数のピークは26年となる見込みで、以降は減少局面に入る。リベラルアーツや教養の大切さについて語る人は多いけど、どのように価値へとつなげていくのかを構造化している中学高校はあまりない。
トビ立ての採択数が発表された。どの学校が真に国際的で探究活動に活動に積極的なのか一目瞭然。
東京都内で3人以上採用された学校は、
東大附属(3)、広尾(3)、順天(3)、十文字(4)、文大杉並(5)、ドルトン(6)、開成(7)。
ひらめきは、得ようと思って得られるものではない。異国に身を置いて視点を変える練習を積み、状況を裏から見たり、斜めから見たりするとひらめきが得やすくなる。また、最重要ポイントに真にフォーカスすることの重要性を理解しているとひらめきは生まれやすい。受験のためにする探究は、受験のためにする暗記と同じくらいつまらないと思うから、真をつかんでほしい。
次期学習指導要領では探究総合、探究日本史、探究世界史などのいくつかの探究科目だけでなく、すべての教科を探究とする方向で議論されている。
また、情報の教科についても探究と連携して自ら課題を見いだし、自ら考え、自ら調べる、という学習をすべての教科で実現する方向で議論がなされている。
うむ。
この種の議論は、教育改革を理念の拡張として語っている点で、本質から外れている。
探究を増やす、全教科を探究化する。
言葉としては良いが、教育の現場は科目名や理念では動かない。動かすのは評価と選抜の仕組みであって、そこが変わらない限り教育の風景は変わらない。
現実には、教員は定期考査の点数で評価され、学校は進学実績で評価され、生徒は入試で選抜される。
この三層構造の中で、探究はどうしても周縁化せざるを得ない。探究的な活動は時間がかかり、成果が数値化しにくく、入試との接続も弱い。
結果として、理念として掲げられても、現場では形だけのレポートやプレゼンに収束していく。
更に言えば、探究を全教科に広げるという発想自体が、日本の教育の構造的な問題を露呈している。
つまり。
日本の教育は依然として教科を単位に管理し、授業時間を配分し、到達目標を設定する発想から抜け出せていない。
探究とは本来、教科横断で、問いから始まるものであって、教科の枠に再配置した瞬間に制度化され、管理対象になる。
そこにもう一つの矛盾が生じる。
探究は本来、生徒ごとの差異を前提とする筈。しかし日本の教育制度は、依然として同一進度、同一評価、同一時間割を前提にしている。
この構造のまま探究を広げれば、結局は形式的な課題設定やテンプレート化された発表に収斂する。すでに総合的な探究の時間で起きている現象が、そのまま全教科に広がるだけ。
更に根深い問題は、教員側の専門性の問題。
探究型教育は、問いを設計し、学習過程を伴走し、評価を記述的に行う高度な教育技術を要求する。
しかしながら現在の教員養成は、依然として教科知識と授業運営が中心で、探究を設計する訓練は十分に行われていない。制度だけ先行し、専門性の基盤が追いつかない構図が続く。
そして最も重要なのは、入試との関係。
大学入試が知識再生型から完全に転換しない限り、探究は副次的活動に留まる。
生徒も保護者も学校も、最終的には選抜に最適化する。これは善悪ではなく、制度の帰結。
入試が変わらず、評価が変わらず、教員養成が変わらないまま、探究だけを全教科に広げても、現場に残るのは書類と発表と評価シートだけになる。
つまり、探究を全教科にという議論は、教育の本質に踏み込んだ改革というより、教育制度の外形を変える議論に近い。
教育が変わる時は、理念が広がった時ではない。
評価と選抜が変わった時。
そこに触れない探究拡張論は、教育改革のニュースではあっても、教育変革の議論にはなっていない。
エデュでは全くそこに触れた話題がないのが、らしいと言えばらしい。
だから現在経団連や経済同友会が大学入試を基礎学力偏重から探究心、好奇心に基づく主体的な学びに変えるように提言している。
教育の最大の欠陥は大学が一般選抜入試を続けていること。これら経済界も大学入試が大きな課題だと指摘している。
経済界が入試改革を求めているという話は、むしろ問題の本質を逆に浮き彫りにしている。
そもそも企業が教育の中身にまで踏み込んで提言せざるを得ない状況自体、日本の高等教育が産業構造の変化に追いついていない証拠に過ぎない。
しかし、それをもって一般選抜が最大の欠陥と断定するのは、議論の飛躍が大きい。
例えば、日本経済団体連合会 や 経済同友会 が求めているのは、単なる推薦入試の拡大ではない。
本質は、課題設定能力
不確実性への対応力
長期的な思考力
こうした能力の評価を大学教育の中でどう育てるかという話であって、入試方式の形式だけを変えれば解決するという単純な話ではない。
寧ろ、現在すでに総合型選抜や推薦入試が拡大しているにもかかわらず、日本の大学教育の質が劇的に変わったとは誰も言わない。
これは何を意味するか。
入試は入り口に過ぎず、教育の本体は大学の中にあるという当たり前の事実を示している。
更に言えば、企業側の提言もまた矛盾を抱えている。
企業は探究心や主体性を求める一方で、採用では依然として大学名によるスクリーニングを続けている。
つまり、企業自身も評価制度を変え切れていない。
この状態で大学入試だけを変えても、学生の行動は変わらない。
学生は評価されるものに最適化する。
大学名が評価されるなら偏差値競争になる。
活動実績が評価されるなら活動の量産になる。
すでに総合型選抜対策として、中高生の探究活動が塾産業化している現実がそれを示している。
探究を制度化した瞬間、それはまた受験テクニックに変換される。
ここが最も重要な点。
探究は制度化すると、探究でなくなる。
本来、探究は評価されない余白から生まれる。
失敗が許容される環境から生まれる。
時間の余裕から生まれる。
しかし、日本の教育制度は
期限
評価
序列
この3つを中心に設計されている。
この構造が変わらない限り、どれだけ入試を変えても、探究が教育の中心になることはない。更にもう1つ重要な点がある。
経済界が求めているのは、全員が探究型人材になることではない。
実際の企業組織では
研究開発型
実務遂行型
管理型
様々な人材が必要になる。全員に探究型を求めるという発想自体が、現実の組織設計と矛盾している。
つまり、探究型教育の全面化という議論は、理想としては美しいが、社会の実態とは必ずしも一致していない。
寧ろ問題の核心は別のところにある。
日本の教育は、突出した人材を生む設計になっていない。平均値を上げる設計になっている。
だから、探究を全員に導入するという発想になる。
しかし、探究型人材は全員から生まれるものではない。
一部の強い関心と執着を持った個人から生まれる。
本来必要なのは、全員に探究を課すことではなく、
探究する少数を阻害しない制度。
そこに議論が及んでいない。
だから、今回の議論もまた、理念としては正しいが、構造としては浅い。
探究という言葉が広がるほど、逆に探究の本質から遠ざかる。
この皮肉こそ、日本の教育改革の現在地だと思う。
企業が探求型教育をせっつくのは、学校で企画会議めいた経験を積ませて、社員教育コストを下げるためでしょうね。共通テスト「国語」でのこれに適合的な出題と、高校国語の論理・文学の2分割とでも、生徒は着実に馴らされていきますね。
西千葉さんのご指摘は、かなり本質を突いていると思います。企業側の探究型教育推進の動機を理想論ではなく、コスト構造から読み解いている点は極めて現実的です。
実際、日本企業はこれまで長期雇用を前提に、入社後に時間とコストをかけて人材を育ててきました。しかし、産業構造の変化と競争の激化で、その余裕が急速に失われている。
結果として企業は、即戦力とは言わないまでも、少なくとも
自分で課題を設定できる
会議で意見を言える
仮説を立てて検証できる
こうした最低限の言わば「企画会議リテラシー」みたいなモノを持った人材を求めるようになった。
探究型教育を求める背景には、まさにその社員教育の前倒しという側面があるのでしょう。
更に、西千葉さんが指摘された共通テスト国語の変化も象徴的です。
知識の再現ではなく、複数資料の読解
立場の異なる意見の整理
条件付きでの判断
こうした出題は、まさに企業の会議や企画書作成に近い思考様式を要求している。
高校国語の論理・文学の分割も、単なる科目整理というより、実用的読解力を強化する方向性と見ることもできる。
ただ、その一方で少し気になる点もあります。
企業の求める探究力と、本来の学問的探究は必ずしも一致しないという点です。
企業が求める探究は、比較的短期で結論に到達する
実務的な問題解決能力に近い。
しかし、本来の探究は
結論が出ない
遠回りが多い
非効率
こうした性質を持つものです。
もし教育が企業ニーズに過度に引き寄せられると、
長期的な研究力や基礎学問の力が弱まる可能性もある。
ここにはやや皮肉な構図がありますね。
企業は短期的な教育コスト削減を求める。
しかし、その結果として長期的なイノベーション基盤が弱まる可能性もある。
探究型教育の議論は、この短期合理性と長期的創造性のバランスの問題でもあるのかもしれません。
西千葉さんの視点は、理念ではなく制度の背後にある動機を読み取っている点で、非常に示唆的だと感じました。




































