在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
「暗記から探究へ」
「暗記から探究へ」
週刊エコノミストの表紙にこの文言が躍る日がくるとは!
2023年の出生率が過去最低を更新したと発表されました。人口動態が変わると市場環境も変わります。運をつかんで成果に変えていくために、子どもたちに必要なマインドセットについて考えると、早く多く問題を解く作業的な情報処理や最短で効率的なルートを得るとか、もう古い。風向きが変わりつつあるのを感じる。
「教育」とは何か。「学力」とはなにか。こうした定義が人によって異なり、もはや無視できないレベルに差がひろがっているように感じる。共約不可能性である。大学進学者数のピークは26年となる見込みで、以降は減少局面に入る。リベラルアーツや教養の大切さについて語る人は多いけど、どのように価値へとつなげていくのかを構造化している中学高校はあまりない。
トビ立ての採択数が発表された。どの学校が真に国際的で探究活動に活動に積極的なのか一目瞭然。
東京都内で3人以上採用された学校は、
東大附属(3)、広尾(3)、順天(3)、十文字(4)、文大杉並(5)、ドルトン(6)、開成(7)。
ひらめきは、得ようと思って得られるものではない。異国に身を置いて視点を変える練習を積み、状況を裏から見たり、斜めから見たりするとひらめきが得やすくなる。また、最重要ポイントに真にフォーカスすることの重要性を理解しているとひらめきは生まれやすい。受験のためにする探究は、受験のためにする暗記と同じくらいつまらないと思うから、真をつかんでほしい。
西千葉さんの指摘、非常に本質的だと思います。
経済界が求めているのは、結局のところ平時の優等生ではなく、有事や変事で判断できる人材なのでしょうね。
ただ、それをそのまま言ってしまうと教育として扱いにくい。
だから答えの無い問題、主体性、探究力といった言葉に置き換えられている。
しかし西千葉さんの言う通り、重要なのは能力以前に熱なのだと思います。
有事で動ける人間は、知識があるから動くのではない。
普段から考えているから動ける。
その意味で
全員にパンが1枚配られるまでは、2枚目に手を出してはいけないだろうか
この問いは、非常に象徴的です。
正解はありません。
しかし、答えは出さざるを得ない。
公平を重視するのか
効率を重視するのか
自由を重視するのか
価値観がそのまま現れます。
そしてこうした問いは、タブレットもAIも必要ない。
むしろ、日常の中にある問いの方が深い。
最近の教育議論は、どうしても手段の話に流れがちです。
タブレット
プログラミング
STEAM
ビジコン
しかし、それらはあくまで道具に過ぎない。
本当に重要なのは、西千葉さんの言う
緩急に備える熱
これを保たせることなのでしょう。
そして、この熱は設備投資では生まれない。
問いによってしか生まれない。
数万円のタブレット無しでも行けます
この一言は、現在の教育改革の本質を静かに突いているように感じました。
あ。
私はビジコンやディベート甲子園否定派じゃないですよ。何度も書いている通り、ディベート甲子園OBでもありますし、AI時代にも十分に意味のある学びを含んでいると思っています。
ただ、それらが万能の教育手法のように語られ始めると、少し違和感を覚えるのです。
ビジコンもディベートも、あくまで形式。
そこに熱が伴わなければ、結局は上手にこなす訓練に収まってしまう。
逆に言えば、西千葉さんの示されたような日常の問いこそ、その形式に命を吹き込むものなのだと思います。
全員にパンが1枚配られるまでは、2枚目に手を出してはいけないだろうか。
こうした問いに向き合った経験があってこそ、ビジコンやディベートの議論も、単なる勝ち負けや評価を超えたものになる。
その違いよね〜
一方、タブレットが有用な例です。話題の直美問題を考える糸口に、本人と同定しない街をゆく女性の映像を、ある時点のソウルと東京から取り出し、それらと、半年後の東京の映像との3つを比較して、顔立ちの西からのインパクト、が実証できれば、日韓の美容整形の実態への接近に資すると思います。これを流行の作為性の問題へ拡げたり、より一般化させて「西から東への流れ」を考えさせることも可能でしょう。マーケティングの基礎演習にもなりませんか?
初等中等教育はどうあるべきか、批判は誰でもできるんだよ。従来の教育では結果がでなかったのだから変えるしかない。
探究学習は一つの解だ。尖った才能や個性が必要な時代に高度経済成長期のときと同じ正解のある問題を解くだけで大学に入れる時代はもう終わり、
基礎学力は必要なのは、もちろんだけどAIが東大の問題を満点とれる時代に、AIと同じ能力を人間に競争させる意義は薄れているということを理解すべき。
探究というより、各個人の関心や好奇心に基づく主体的な学びが大切ということ。
自分のキャリアは自分でつくる。それが企業をジョブ型に変え、終身雇用やメンバーシップ型等の既存の社会の仕組みを世界標準の仕組みに変えていく。
探究人材がほしい大学、STEAM教育や理数人材がほしい大学、グローバル人材がほしい大学、各大学がそれぞれのアドミッションポリシーに基づく学生像に相応しい人材を選抜すればいい。
誰もが英語、国語、数学、社会、理科等ができる必要はない。理数だけで選抜する大学や学部、語学だけで選抜する大学や学部、学校の成績と課外活動で選抜する大学等、各大学はほしい学生像に基づき選抜すればいい。
経済同友会は、
これからの教育に求められるのは、知識や技能の習得ではなく、主体性、創造性、協働性を核とする総合的な能力を備えた価値創造人材の育成。
そのためには、個の主体性を尊重し、多様性を育む教育環境を社会全体で整えていくことが必要。
経済同友会は、
問題発見や解決能力、他者と協働する能力、主体性の涵養などは、価値創造人材を育成する上で不可欠。探究の時間の充実を図るべき。
自ら問いをたて、解決策を検討し、発表を通じて賛同を求める経験を高める必要がある。
ハァ。
そろそろ40回目に突入しそうですか?
溜息も乾きます。
さて。
また典型的な教育改革テンプレの総動員ですね。
主体的な学び
ジョブ型
終身雇用の崩壊
世界標準
STEAM
グローバル人材
多様な選抜
並べればそれらしく見えますが、残念ながら中身が殆どありません。
まず、自分のキャリアは自分でつくるという話。
これは理想としては正しいですが、現実の労働市場はそんなに単純ではありません。
ジョブ型社会こそ、むしろ基礎学力を強く要求します。職務が明確になる程
専門性
論理性
言語能力
これらが直接評価されるからです。
誰もが英語や数学ができる必要はない、という主張は、むしろジョブ型社会と矛盾しています。
ジョブ型は自由な社会ではありませんよ。
能力が可視化され、流動化が進む、より競争的な社会です。基礎学力を軽視した瞬間に、キャリアの選択肢はむしろ狭まります。
更に言えば、大学が欲しい人材を選べばいい、というのも、かなり楽観的です。
大学は企業ではありません。市場の中で即座に淘汰される存在でもない。
だからこそ、アドミッションポリシーは理想論に流れやすい。
探究人材
グローバル人材
理数人材
こうした言葉は、すでにどの大学も掲げています。
つまり差別化になっていない。結果として、実際の選抜は依然として
基礎学力
試験成績
に収斂していく。
そしてもう一つ。
誰もが英語、国語、数学、社会、理科ができる必要はない、という発想は、一見多様性のようで、実はかなり危うい。基礎教養を削った多様性は、単なる早期選別になりやすい。
まだ可能性の広がっている段階で
理数型
語学型
探究型
とラベルを貼ることになる。
これは多様性ではなく、寧ろ可能性の固定化。
本来、初等中等教育の役割は逆でしょう。幅を広げること。
大学や社会に出てから、専門性を深める。
この順序を逆にすると、早熟な人材は伸びても、晩成型の芽が失われます。
教育改革の議論でよく見かけるのですが、
多様性
主体性
世界標準
という言葉が出てくるとき程、実は思考が均質化している。今回の主張も、その典型。
ほんと。
乙です。




































