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【5601828】公立高校の最低迷期、1900年代を語る

投稿者: エネイブル   (ID:T4LanBR7CEo) 投稿日時:2019年 10月 11日 23:32

超伝統公立校、日比谷高校の東京大学合格者数

1990年  8人
1991年  7人
1992年  8人
1993年  1人 ←まさにこの人のおかげで日比谷の連続性が守られた
1994年  7人
1995年  4人
1996年  3人
1997年  6人
1998年  2人
1999年  2人

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  1. 【7199168】 投稿者: 昔の都立武蔵は宜しくなかった。  (ID:.Ts4wtUVqEY) 投稿日時:2023年 05月 04日 20:04

    昔の都立武蔵は宜しくなかった。
    ・教師は教科書をテキトーにしかやらない。
     「笑っていいとも!」等のバラエティ番組の雑談をよくやったり、
     生徒を偏った思想で洗脳したりしていた。
     そして、授業の中身は薄いが、口が上手い先生が生徒から人気が有った。
    ・3年の担任は受験指導はやらず、2月の授業は無い。
     その3年の2月に「君達の分まで滑って来るから!」と言ってスキーに行った。
     そして、税金から給料を貰っていた。
    ・生徒は教師に不満を言わず、弱い者イジメで鬱憤を晴らしていた。
    ・生徒は高校時代には受験競争に批判的だったが、
     卒業一年後の同窓会は(当時は一浪が普通)、大学合格報告会になり、
     イイ大学に入った奴が幅を利かせていた。

  2. 【7199253】 投稿者: お受験板からコピペ  (ID:Vavr2/sH8ew) 投稿日時:2023年 05月 04日 21:46

    401名無しなのに合格2022/10/18(火) 17:16:54.84ID:rPbM5Ocw
    >>397
    当時通ってた塾の先生の話、駿台以外の模試の偏差値表、自分で過去問(過去問に合格最低点も各校書いてあった)をやった採点結果から推測すると、この1994年の頃の時代の駿台偏差値だと
    桐蔭理数男子、市川は高すぎる気がする
    逆に、海城、早大本庄、早実商業、青学男子、中大杉並、城北は低すぎに感じる

    市川も当時は男子校で今より遥かに簡単だったし、入試問題も千葉県立・都立上位校の好併願校らしく公立メインの勉強してる生徒でもそこそこ喰いつけるような問題が多くて入試難易度も駿台偏差値58もないと思った
    実際、昔の市進出版の入試ガイド本(市進は千葉県立や市川、都内の開成や国立、都立トップの合格実績が凄かった)に千葉県立との併願結果が載ってたが、県立千葉にとっては完全に滑り止め、千葉東○市川×もその逆も多数出てた記憶がある

    明大明治は当時は男子校で今より簡単だったけど、桐蔭理数男子と同等くらいの難易度だと思った

    中大杉並は国語の難易度が鬼畜を初め英数も県立で9割とれるレベルでも苦戦必至なレベル(当時あった「高校受験英語の実況中継」みたいなタイトルの河合塾高校受験部の先生が書いた本に「中杉の問題は国語が超ド級の難攻不落。
    英語が8割じゃキツイ。数学も結構難しい」とあった)で合格最低点も3科で7割超えとかの年が多くて駿台偏差値54は過小評価に感じる
    中大附属は当時は男子校で国語は中杉ほどじゃないけど難しかったが、問題難易度は各科目とも中杉の一回りスケールダウン版という感じ。中杉との難易度差は結構大きかった

    早大本庄は早慶附属で唯一、問題の難易度が早慶附属レベルではなくマーチ附属上位校レベルだったけど、合格最低点は非公表ながら「7割以上のはず」と塾の先生が言っていたので桐蔭理数男子よりは確実に難関だと思った

    早実商業も駿台以外の模試の偏差値だと早実普通科(当時は早大学院よりやや下くらい)と偏差値1か2かくらいの差でそこまで水を開けられていなかったような記憶。桐蔭理数より完全に上にランクされていた

    海城は駿台以外の模試偏差値でも早大学院よりやや下レベル
    入試問題の難易度は早大本庄より確実に難しくて、早慶附属よりやや簡単なレベルだった。県立の英数国で満点クラス取れる奴でも難問耐性が無いタイプは英数が4割さえ大きく下回る点数になるレベルだった。うろ覚えだが当時の最低点は6割前後だったような?
    駿台59で桐蔭理数男子と同じってのは低くないか?というのが正直な感想

    異論は認める  

  3. 【7199254】 投稿者: お受験板からのコピペ  (ID:Vavr2/sH8ew) 投稿日時:2023年 05月 04日 21:47

    216実名攻撃大好きKITTY2022/10/18(火) 22:43:54.33ID:9zhyKF9C0
    >>214
    >>215
    当時の入試難易度は

    桐朋≧慶應志木>慶應日吉>早大学院>早実普通>海城≧早実商業>早大本庄>青学男子=ICU>>桐蔭理数≧明大明治≧立教≧中大杉並=成蹊>城北>中大附属>>都立トップの西・戸山

    くらいだったはず
    桐朋の高校入学組は凄かったな
    3割以上東大に入ってた記憶がある
    現代の学年320人くらいの標準的な都立に換算すると東大100名近くになる計算

  4. 【7199255】 投稿者: お受験板からのコピペ  (ID:Vavr2/sH8ew) 投稿日時:2023年 05月 04日 21:49

    440名無しなのに合格2022/10/22(土) 22:43:30.71ID:P39EOAyo
    >>397
    >>401
    >当時通ってた塾の先生の話、駿台以外の模試の偏差値表、自分で過去問(過去問に合格最低点も各校書いてあった)をやった採点結果から推測すると、この1994年の頃の時代の駿台偏差値だと
    >桐蔭理数男子、市川は高すぎる気がする
    >逆に、海城、早大本庄、早実商業、青学男子、中大杉並、城北は低すぎに感じる

    その頃は、高校受験の模試は駿台模試の他に、市進模試、河合塾高校受験部の模試、代ゼミ高校受験部の模試もポピュラーだったな(SAPIX模試もあったはずだけど、今ほどポピュラーじゃなかった記憶)


    1997年の市進模試(当時は市進の難関高校合格実績シェアは今より遥かに高かった記憶。開成、国立大附属、早慶附属、公立トップ合格者実績もSAPIXや早稲田アカデミーに勝るとも劣らないくらい)の偏差値だとこんな感じだったはず(厳密には記憶していないので一部記憶違いあるかも)


    特(偏差値74以上は「特」と一括表示だったはず) 開成、武蔵、国立大附属、早慶附属(早大本庄以外)、桐朋
    73 海城、早大本庄、青山学院(男子)、県立千葉、東邦大東邦、渋谷幕張 (渋幕は今とは比べ物にならない進学実績だったが、この偏差値は当時もあった)
    72 巣鴨理数
    71桐蔭理数科(男子)、城北、明大明治、中大杉並、立教、明治学院(女子) (当時の明治学院は女子がやたら高くて、ここの第一志望者が都立トップを滑り止めにするケースも少なくなかった。逆じゃなくて)
    70中大附属
    69学習院
    68成城
    67西 戸山 国立 八王子東
    66日比谷 小石川 両国

  5. 【7199256】 投稿者: お受験板からのコピペ  (ID:Vavr2/sH8ew) 投稿日時:2023年 05月 04日 21:49

    539実名攻撃大好きKITTY2023/04/09(日) 22:02:31.64ID:AOPLJ6CF0>>571
    開成・国立の理社はともかく、都立の理社や内申は3科私立対策が片手間になるくらい(言い方を変えると、「都立の理社や内申を放棄して難関私立の3科対策に時間を回せば実際に受かった私立より遥かに上の高校に受かるくらい」)時間を消費するかな?
    30年くらい前の1990年代中盤で結構記憶が薄れてるし入試制度とかも現代とは全然違うが、理社や内申はそこまで時間を削られた記憶がない

    都立の当時のトップ校4校くらいのうちの一つ(東大合格者数は高校受験時で20名近く、卒業時で10名中盤だったはず)に都内公立中から入学
    当時の合格ラインは5科で得点率85%以上(9割も要らなかったはず)、内申は現代と点数化方法が違ったが、素点で言うと5科24・実技16もあれば達したような(当時は相対評価で今より厳しい)

    普段は大手塾(当時も難関私立向けか。都立トップも合格者が各校何十名も出てたが)で3科受講。理社は塾行かず自習 中学の定期試験で5科で学年ベスト3位以内キープしていたら都立向け模試では理社も60後半は切らなかった(問題が簡単な回は満点でも70行かなかったり、逆に平均低くて75まで行ったことも複数回)
    理社は塾に行かず参考書学習だったが、まともにやった本は夏休みの宿題で中学で配布された、ワークみたいな問題集(全国公立高校の問題からの抜粋がメインで、最後の難しい問題は難関私立の過去問もチラホラと)と要点を薄い参考書くらいか 社会は毎回の定期試験対策のために中学の社会の教科書を読みこんだのが定期試験にも入試にも奏功した

    都立本番では5科で460点くらい(理社で190点くらい)行った記憶
    実技はどれもダメななタイプだったから実技は定期試験で稼ぐしかなく、実技の学科はかなり頑張ったので実技はオール4取れた(というか実技が下手で定期テストで稼いでも4留まり…)

    5科も含めて、定期テスト期間中10日くらいは定期試験メインで勉強して、ただし塾は休まず行った
    単純に定期試験対策に費やした時間はかなりあるけど、理社は都立の入試対策としても凄く役に立ったし、数学は後半の設問とか公立中の定期テストにしては難易度高い問題とかあったので私立高校対策としても結構役に立った。英語もそこそこ 入試に効果が無いのは実技対策くらいか

    3科でも海城とか桐朋は私の母校より完全な格上で、生徒たちもそう認識していて海城蹴りはスゲーて言われていた

  6. 【7247724】 投稿者: スクールカースト  (ID:WalEkq8tqao) 投稿日時:2023年 06月 24日 15:20

    都立高校低迷期の都立武蔵にはスクールカースト的な所が有ったな。
    男女共学、勉強しない、服装が自由等のスクールカーストが発生し易い要素が揃っていた。
    (受験指導する進学校はスクールカーストが発生し難い。)

  7. 【7249910】 投稿者: 時代は変わる  (ID:TJdjpUOyy8M) 投稿日時:2023年 06月 27日 08:56

    ここまでROMしていて長期の変遷がよくわかりました。皆様に感謝です。
    私は学校群世代で父・祖父は府立中学の卒業生。筋金入りの都立信者の家系でしたが、既に私の時代で輝いていたのは22群(戸山・青山)32群(西・富士)そして72群(立川・国立)のみ。林望先生(林修先生ではありません)の戸山高校在学青春期物語にそう書かれています。
    しかしながら、高校在学中に「どうも都立は終わったな、庄司薫の描いた都会の青春はなくなっている」と思っていました。私は日比谷ではないですが。
    ということで、都立信仰はやめて息子を駒場の男子中学に進学させましたが、当時は一族で裏切者扱い(?)を受けました。
    でも、進学させて自分と同じように大学受験にとらわれない生活を送っていた息子の様子をみて、単なる進学実績で進学先を決めるのではなく、個性と知的好奇心をもった生徒を集める校風がある学校を選ぶのが人生を豊かにする最適な選択だと考えています。

  8. 【7249981】 投稿者: バラード  (ID:l4QtKNJ7YBo) 投稿日時:2023年 06月 27日 10:29

    都立学校群がはじまったのは1967年ころ。このあと数年は様子見だったと思いますが、優秀層はまずは教育大付属、駒場、学附の高校受験、その後これらの学校の中学受験。

    中学受験がよい、6年一貫がよいとなると、開成、麻布、武蔵がいわゆる御三家と言われ、続けて女子御三家も言われだしたのが1980-2000年くらいでしょうか。

    都立の改革はじまったのも2000年前後で、公立一貫、進学指導重点校、教員の入れ替え、予備校も呼んで受験システムも作りだして、10年くらいかかって何とか実績も出し始め神奈川など他県も同様なシステム始めた。
    2000-2010年は公立は改革始めたがまんfの時期かもしれません。
    これはもともと桐蔭などやってた塾予備校型レッスンシステム、続けて塾の無い郊外型のものとも近く、最終的に東京一工めざせる学力つけるものと言われたり。
    公立一貫も難関進学指導も公立でやれるのなら 何も私立にしかなくても、も。

    なのでスレの低迷期に、最がついて最低迷期となると1980-2000年くらいかな。
    とにかく学校群でくじ引き制、好きな学校いけない、、のはひどかったですね。

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