女子美の中高大連携授業
古文漢文要らない
大学入試の科目(東大など科目数が多いケース)
文系でも統計などで数学は使うので、最低限の数学は必要。
理系でも現代文が読めて書けなければ話にならないので、現国は必要。
グローバル社会の中で、英語はどの分野に行くにも当然必要。
文系の人でも、理科的思考はある程度経験した方がいい。
理系の人でも、世界の地理や歴史の基本的なことは、たしなみとして知らなければ恥ずかしい。
ところで、古文、漢文、大学入試にある意義はなんでしょうか?
東大なんか、理系の2次でも古文、漢文ありますが、その後の人生でほぼ何にも役に立ちません。
ここから改革してほしいです。
皆さんどう思われますか?
教養としてなんだろうけど実際はほぼ無駄ではある
でも欧米でもラテン語やるし配点低いからギリギリありかな
それより学校によって入試科目減らすのやめさせるべき
共通テスト5科目採用か同等試験をしないところは大学とは名乗らせないようにすれば良い
教養の意味にもよるが、趣味教養ではない。
言語にも社会にもバグがある。
バグというより、社会や宇宙はまだ1つの矛盾ない論理体系で説明できていない。物理理論や法哲学で、弥縫的に体系を装っているだけだ。
表面的な実学だけだと、すぐに矛盾にぶち当たって、この社会は訳分からないけど、とにかく従え、みたいなことで、革命と争いが収拾つかなくなる。
まずは、憲法第9条の平和主義がウクライナ情勢でひとたまりもない。
だから、数学含め、世界の体系化の試みは続けられなければならず、入試にも必要なのだ。
理系の子どもがいます。
本人が申すには ”古典は、(理系にとっては)稼ぎどころ”
英語やドイツ語フランス語同様、
文法を網羅しておけば予想点は取れるから、とのことでした。
他のお子様でも古典アレルギーという例は聞かないですね。
外国語がベースにあるようなお子さま(やご家庭)であれば、普通に興味を感じて古典にも取り組むと思います。日本史、言語学、考古学にもつながりそうですよね。
結論として、この「哲学」の軽視こそ、この国が懲りずに過ちを重ねる最大の原因である。蓋し、自然科学や社会科学といった特殊科学たるカテゴリーのうち、どれか一つの科学で全体を割り切ることができないことは当然である。そこでは、自分が対象とした領域に関する限りの法則をつかむに過ぎないからだ。すなわち、特殊科学はそれぞれの対象と方法によって一定の限界を有している(それゆえ、『数学万能論』も失当)といえる。そこに特殊科学の限界があり、またその限界の自覚の上で、特殊科学はその科学性を発揮することができるのである。その表れの一つが「唯物史観は経済研究の導きの糸」とのマルクスの言であろう。
他方で、そうした自覚は全体的・統一的な把握を待って可能になる。その役目を担い、統一的な存在の法則の把握を目指すものが、一般科学たる「哲学」である。そのうえで、特殊科学は相互の関連が確認される。その結果、さまざまな特殊科学の成果は機械的な寄せ集めから脱皮し、有機的に統一された全体的把握としての世界観を形成し得るのである。マルクスも(唯物論)哲学から入り、まず周囲の出来事の間に存する内面的必然的なつながりを明らかにした。そのうえで経済現象を分析し、諸現象の間での内面的必然的つながりを明らかにするとの方法論の模範をー『資本論』-で我々に教えてくれた。
非専門家ゆえ致し方ないが、議論の大前提になるテクニカルターム自体での共通理解に乏しい。「演繹」や「帰納」との方法論もその一例。それゆえ議論の土俵に乗ることさえ困難になる。もっとも、それは専門家レベルでも同様なようだ。以下、再掲。
さきほどまで『資本論』第3巻25章の「信用と架空資本」の部分を読んでいた。そこで、思わず唸った。マルクスは今日の銀行における当座預金を用いた信用創造まで見事に解明する。あいにく私自身が、企業経営者でもなければ銀行員でもないことが残念。もし多少の実務経験あれば、さらにその構造がリアルに理解できたはずなのに。マルクスは本当に天才だ。
但し、「マル経」の学者らに一言。彼らは、それぞれ訳出するにあたり自ら専門用語を新たに創造する傾向がある。したがって、それぞれの翻訳により異なる「単語」が記されるときがある。たとえば、ある本では「貨幣収束」といい、他方では「貨幣受払い」と訳す。だが、専門外の者には語感的に異なる概念のように見えてはしまいまいか。
その点、「自白」という名詞が原文では女性形であるにもかかわらず、「自白は証拠の『王様』」と訳した先人の「仕事」をそのまま使用し続ける、わが法学の世界のなんと鷹揚で義理堅いことよ。




































