女子美の中高大連携授業
これが旧帝大の現実
今年の成人式での会話
理系ヲタク「ぼ、ぼ、ぼくは東北大学なんだよ」
周りの人たち「ふーん」(無関心)
ブランドスーツで固めた男「俺青学だぜ!!」(指定校推薦)
周りの人たち「すごい!!!○○君って、天才!!!中学から勉強出来たもんね」
理系ヲタク「……」(誰にも相手されずに帰宅する)
しかも「仕方ない」的現状追随か。いずれにせよ、そのことについても、すでに解答済み。以下再ゞ掲。
「ところで、本スレでもしばしば口実として安易に用いられるのが、この『財政上の理由』である。もっとも、仮にそれを主張するのであれば、そうした事情ありながらも、いかなる『特別の事情』あって人間の生来的権利たる憲法14条(平等法理)の保障に違背してまでなにゆえ国立大学、とりわけ東京大学ならびにその学生等のみを過剰に優遇せねばならぬのか、しっかりした根拠を示して-その目的の合理性ならびに手段の妥当性(相当性)につき-説得的に論証してほしいものだ。しかしながら本スレでは、ただ些末な事象につき主観とすらいえぬ次元の感情論だけが横行し、筋も通らぬ形で切り貼りされるだけ。東大関係者も、さぞやありがた迷惑なことであろう。
そこで思うに、それでもこのeccentricな現実を肯定する立場に固執するのならば、まずは事実に基づいて科学的にその根拠(特別な事情)が立証されなければならぬはずである。たとえば、東大生(一般)は一人当たり、私大生のそれに比して『16倍』もの多額な公的助成を受給するに真に値するほどの価値ある特別な人材である、と。もっとも、卑見では、国立大学生も私立大学生も同じ人間として本質的に平等であるから、両者の間に国立大生たり私大生たりの故をもって、国からの公的助成につき不平等な扱いをすることは、上述憲法14条により禁じられるものと解される。
しかしながら、差別容認の立場からの言い分は結局、憲法上からの本質論ではなく、そうした国による裁量が政策的に妥当か否かとの次元に矮小化されざるを得ないのであろう。そうすると、そのような『必要やむをえないもの』か否かは、主観的な判断でなさざるをえなくなる。とはいえ、仮に政策的当否の問題としてそれが国の裁量権の範囲内であっても、その具体的妥当性につき、—最低限—慎重な検討がなされねばならないはずである。しかも、『財政難』であるのに、なにゆえ国会で現在審議中のあの悪法をでっち上げてまで、さらにじゃぶじゃぶと東大等にのみ(私大生ならびに保護者、保証人含む)国民のカネを注ぎ込もうと画策するのか、再び理解不能になるのである。
もっとも『いや、だからこそ非効率な地方国立大学を潰して、余剰資金をそれに充当しようとしているんだよ』と正直に答えてくれたのなら、賛成こそできぬものの、悪いなりに筋が通っていると思われるのだが」
〉憲法秩序の観点からも当然の法理である。
ならは法律に明文化すればよいだけ。
実際に10%未満となってしまうのは、当然とは思っていない人がいるのですよ。
あと何度も言うが、貴方に「君」と言われる覚えは無い。
憲法違反と騒ぎながら提訴もできず、政府との交渉もできない、ということ。
例えて言うなら、貴方は、ボール、バットやグラブの製造元や材料などのうんちくには異常に詳しいが、いざ野球をやらせたら、ボールも投げられない、ヒットも打てない、というタイプですね。
貴方の説明を聞くと、自分の権利処遇ばかり主張するぬるま湯体質。一国民として、ますます、私立大学に税金投入はやめた方が良いと思う。
論破された?幻でもみたのかい?
内閣が出した予算案(助成金が数%)が、議員立法を提案した議員もそれに賛成した議員も含めて賛成多数で可決されているんだから、君が主張する「人間の生来的権利たる憲法14条(平等法理)の保障」には該当しないと考えているんでしょうね。これは国会における憲法の解釈だから、ここで意見を求めても無駄だね。直接議員に問い合わせてごらんよ。
大学入試において何が大切かとの問題に関連して、一般入学試験とAO方式等による入学試験が象徴的に俎上に上る。私は前者を入試での大原則にすべきだと本掲示板で一貫して唱えてきた。その背景には、後者における不平等性の存在にある。すなわち受験生をめぐる文化的・経済的環境による相違が露骨に顕在化するのがこのAO方式だ。しかも最近の格差拡大で、より不平等性が深刻化している。その点、一般入学試験はペーパー試験ゆえに受験生の限られた一面しか考査できぬものの、その限りで客観的かつ平等な競争が相対的に保障される。他方で、一部にAO方式での新入生の方が「入学後の学力の伸び」がよいとの意見が声高に述べられている。
以下、転載。
すなわち、入試においていったい何を大切にするのかという問題である。そこで私は「公平性」を大切にすべきとの立場。むろん、新入生の「入学後の学力の伸び」を重視する立場もあろう。しかし、卑見では前者は受験生目線であるのに対し、後者はあくまで大学側の都合である。例えていえば、私がケインズ流の修正資本主義での平等重視の福祉国家論ならば、後者はフリードマンなどのシカゴ学派による競争重視・成果至上の市場原理主義だといえる。そして現在の早稲田は、新自由主義的な立場たる教員の多い政治経済学部を出身母体とする現総長が後者を重視する姿勢、ということではあるまいか。
むろん、私はそれに反対である。なにより実質的に平等な選抜の場を受験生に保障するのが、大学の使命だと考えるからである。どのような属性の学生が「伸びる」か否かの成果主義は、あくまで大学側の都合に過ぎまい。再度このことを確認したい。それゆえけっして「重箱のすみをつつく問題」ではない。むしろ、入試の本質認識を問う問題であるといえる。
やれ「就職」がどうの、どこの大学が「お得」だのといった即物的・実利的話題に食傷気味だが、こうした無用の用に関わる話題は楽しい。以下、転載
しかしながら、それは過去を踏まえたものであることを重視する。たとえば英国の高名な外交官であり、歴史家でもあったE・H・カーはかの有名な「歴史とは、現在と過去との絶え間ない対話である(An unending dialogue between the present and the past.)」と述べた。しかしながら、それは文系のみならず理系においても必須な思考態度ではあるまいか。
たとえば戦前の中国・ハルピンでは、軍部の命により細菌兵器開発のために日本の医学者らによるペスト菌を用いた人体実験がなされた。それにもかかわらず、最近でも防衛装備庁に差し出された「毒まんじゅう」に安易に食いつき、人殺し兵器研究に加担する科学者たちがいる。そこに、過去への反省は見受けられない。今後は、限度なき野放図な遺伝子組み換えの商業化も懸念される。
そうした科学者の暴走に対し、西欧にはキリスト教文化や倫理が歯止めになり得る。他方で、日本では古文や漢文といった古典に流れる文学思潮・理念がそれに代用する働きをする可能性も考えられる。森鴎外に象徴される医師らが、同時に優れた作家でもあったとの事実も、それの延長線上にある現象とはいえまいか。
二俣川ワールドが全開になってしまっていますね。
それにしても、このワールドに根源的な疑問符を突きつけられない国立大旧帝擁護派は本当に情けない。
彼らが仕掛ける議論のレベルの低さは目を覆いたくなる。
最近の地方旧帝の学生のレベルの低さを象徴しているみたいだ。
「人皆知有用之用而莫知無用之用也」
その未来に向けて、の哲学こそこの国の一部理系人士に決定的に不足している部分ではないかと思われる。それゆえ、遺伝子組み換え等の研究の進展と個人の尊厳との関りにつき、たとえばドイツでは憲法論議としてDNA次元まで遡及して議論が交わされている。むろん、そこにはナチによる優性思想への反省もあろう。
他方、日本ではどうか。ゲノム解析分野一つとっても、業界保護官庁らしく厚労省は、いつでも商業化できる含みを恣意的に残している(「成長」戦略の一環として)。むろん、そこには政治・行政・業界との利権構造の存在がある。そうした背景の中で、この国の理系研究者諸氏は、はたしてどのような未来像を描いているのであろうか。じゃぶじゃぶとカネを供給されて、実態は業界の侍女になり果てているのではないか。
そこに、欧米におけるキリスト教倫理の如く思想的歯止めが存するのであろうか。そうしたときに、その代りとして、この国の古文や漢文に包摂される思潮が思わぬ存在意義を示すのではないかと私は考えるのである。したがって、その契機として、ー理系入試であるからこそ-受験生の将来のためにも古文・漢文の存置を望む。(転載)




































