女子美の中高大連携授業
これが旧帝大の現実
今年の成人式での会話
理系ヲタク「ぼ、ぼ、ぼくは東北大学なんだよ」
周りの人たち「ふーん」(無関心)
ブランドスーツで固めた男「俺青学だぜ!!」(指定校推薦)
周りの人たち「すごい!!!○○君って、天才!!!中学から勉強出来たもんね」
理系ヲタク「……」(誰にも相手されずに帰宅する)
端的にいえば、助成金が数%の予算案に対して、国会の予算審議で議論になってないことを鑑みるとと、議員のほとんどが憲法14条に反しているとは思ってないし、特別の事情が適用されると考えているんでしょ。つまり国民の意志だから、しかたがないと言っているんですよ。
彼の最新の書き込みにも見受けられるように、些末的な現象論を感情的に脈略なく切り貼りするだけ(粘着のための粘着。それ自体が自己目的化している)。そこに本質からの考察がない。ただ、そうした彼等がそれなりの国立大学関係者だとは、さすがに思いたくない。しかしながら、以前なら一目、二目置かざるを得ないような鋭い意見も見受けられたのに、と残念には思う。最近の「Anti」さんの質的劣化は目を覆うばかり。むしろ、他スレの方々のご意見に斬新さが認められる。そちらの方が楽しい。
〉国立大旧帝擁護派は本当に情けない。
彼らが仕掛ける議論のレベルの低さは目を覆いたくなる。
その旧帝大だけでなく地方国立大にも、世界大学ランキングでも科研費採択数でも司法試験合格率でも及ばず、私学助成金ばかりを期待する人びとのレベルの低さは目を覆いたくなるばかりだ。
やはり暇なのだろう。
なんのひねりもない。どうせなら、浮世草子、とりわけ井原西鶴の「好色物」、たとえば『好色一代男』や「町人物」、たとえば『日本永代蔵』でも読んで、そうしたセンスを磨くことだ。
ところで、 他スレで「知と歴史の問題(古文・漢文)」 との表題で、下記卑見を記した。それにつき、どうお考えかな。ぜひ、ご高見を賜りたい。以下、転載
「思想や知は、人間が生きる現実を離れて純粋な思考によってのみ成立することはない。それは社会共同生活における他者との関りにおいて、また当該社会が営々と積み重ねてきた歴史的実績において人間の性格や思想に関わるものといえる。したがって、そこに時代、文化、風土からの影響を無視することはできまい。それはあの和辻哲郎が風土を国民性分析の基礎としたように、人間精神は社会の流儀や文化の仕組といった環境的要因に規制、影響される。また、それを「伝統」というのならば、この伝統を無視した精神活動はない。そして、その人文科学的表現が古文ならびに漢文であり、それを離れた精神活動はない。さらにクーンT.S.Kuhnも、科学の歴史的研究から、科学の共同性や歴史性を特有なパラダイムParadigmの概念によって説明しようとしたのであった。その意味で人文科学的思潮・背景は、理系科学にも通じる普遍性を有する可能性あるとはいえまいか」
当然、古文漢文は必要です。日本語や日本人の思考の源流を学び、不易流行を知ることができる。温故知新。
ちなみに、以前東大HPにおいてなぜ多くの受験科目を課すのかを受験生に問いかけていた。とても共感できる内容であった。
また、都立高校も受験科目かどうかによらず幅広い履修科目が設定されている。
理系こそ古文や漢文など、文系こそ数学や物理など、を学んでおくべき。
なお、他スレに以下の駄文を記した。あなた様のご笑覧に付したい。以下、転載
「文学は、時代の理想や思潮等に突き動かされて成立したものといえる。したがって、個々の文学現象も、それを誕生させた各時代に統一されつつ、一定の人文科学的理念に基づき展開される。それを私は『伝統』と位置付ける。だがそうした『伝統』も、こと学問の領域では、それが深まるにつれて、疑問や謎がなぜか反比例的に増大していく場合もある。すなわち、読めば読みほど、知れば知るほど難解になり、謎を表し始めるのが人文科学における逆説性である。理系にある方々もそれらを通じて、文系の、人間の有するその『非合理性の実相』を知って頂くことも有意義なのではないかと思われる。なぜなら、人間の行動原理は、あたかも自然現象と同様に、機械論的形式論理で、数学的緻密さで説明できるものではないと思われるからである。たとえば、自他ともに認める才色兼備の一流国立大学出身・女性医系研究者が、私生活ではしばしばそれと真逆の信じがたいアンビバレントな行動をとる実例を知るからである」




































