在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
これが旧帝大の現実
今年の成人式での会話
理系ヲタク「ぼ、ぼ、ぼくは東北大学なんだよ」
周りの人たち「ふーん」(無関心)
ブランドスーツで固めた男「俺青学だぜ!!」(指定校推薦)
周りの人たち「すごい!!!○○君って、天才!!!中学から勉強出来たもんね」
理系ヲタク「……」(誰にも相手されずに帰宅する)
詳細な説明をありがとうございました。「世襲的特権」の廃絶、「クオータ制」の導入、ともに世代間や男女間格差を是正する現実的な方策として理解できました。
>「ぜいたく」さえ辛抱すれば、教育も医療も無償、老後も清貧だが安定した生活がそこに当面は保障される。
その一つ前のこの書き込みが気になりました。日本国民が辛抱や清貧を志向するかどうか…ですね。
>経済のグローバル化が進展すれば、先進国内では、水野和夫が100年デフレと呼ぶ構造的なデフレが長期化し、それは先進国と途上国の内外価格差が解消されるまで続く。
但し、上記は分る。また、そこに水野さんの名が出て来るとは思わなかった。私は彼とは何度か酒席を共にしたことがある。とにかく発想のスケールが大きい。私と異なり、癖のない円満なお人柄でもある。
社会主義のユートピアは、現実にはディストピアを招来したと揶揄される。しかし、この理想と現実は矛盾していたものではなく、両者を架橋する論理は存在している。たとえばマルクスは共産主義社会において労働者の「必要に応じた分配」を述べた。それがあの旧ソ連に在っては「必要最低限だけは保障する」に変質された。その結果、ソ連人民は西欧的には悪平等的ではあったものの、必要最低限の生活は保障されていた。またそれは、旧ソ連から脱退した国々でも同様であった。
そこで思うに、たしかに資本主義は国民に自由を提供する。しかしながら、そこには常に経済力なる裏の(隠れた)マスクがついて回る。したがって、たとえ経済的弱者に形式的な自由あろうとも、経済力が伴わねば画餅に過ぎない。むろん、だれにも富裕層に仲間入りできる「可能性」もある。だが現在の日本では、市場原理主義を唱えて自由競争を絶賛しつつ、実はその論者自身が世襲的特権層にあるとのグロテスクでアンフェアな矛盾が横行する。そうしたとき、多くの人々にとって富裕層へのチャンスなど、事実上夢想でしかない。
そうであれば、多くの国民にとって、市場原理主義的なジャングルの自由は自らの生存すら危うくなる。そうであれば、実質的に乏しい形式的自由などに拘泥せず、ぜいたくはできぬものの明日の生活に不安なく今日も安んじて眠りにつける体制を選択する道も残されているのではないかと思われる。語弊あるが、厳しい環境にある野良猫は「自由」こそあるものの、寿命は短い。他方で、家猫は家屋内での限定的自由しか許されないものの、食事と安眠できる場は保障されている。そのいずれかを選択するのは、最終的には人民の意思に依る(猫には選択権はない)。
日本における近代経済学の大御所である中谷巌も『資本主義はなぜ自壊したのか』の中で似たようなことを言っている。
彼もまた、経済のグローバル化により、国民経済の論理が破綻したことにその原因を求めている。
文化や制度により外部と一線で画されている国民経済が成立していれば、その内部において貧富の格差が広がることは、貧者からの広範な需要を期待できなくなるから、経済全体の利益を阻害する。そこでは国内におけるケインズ的な有効需要創出策が必要になってくる。
だが、グローバル化が進展していれば、国内での需要が期待できなければ、海外に需要を求めればよいということで、国内の格差は見過ごされる。韓国におけるサムスンの行動がよい例である。
グローバル化により国民経済が成立しなくなれば、国内での調整を目指した伝統的な財政政策や金融政策では経済をコントロール出来なくなる。
先進国内では手付かずの格差が拡大し、やがて資本主義は自壊する。
資本主義体制を前提にした近代経済学はあらゆる場面で限界を露呈している。
ここは、マルクス経済学の出番なのかもしれない。
私は斎藤幸平の新しい切り口からのマル経復活に期待している。
彼が言っていることはなかなか筋がいいですよ。
もちろん荒削りだけど、彼はまだ若いからこれからに期待できる。
野良猫の自由と家猫の自由というテーマの立て方は面白いですね。
何々への自由と何々からの自由という2種類の自由を象徴しているみたいです。
確かに、我々の感性を巻き込みながら進展する資本の増殖過程からの自由というテーマはあっていいと思う。
それは確かに今の我々が求めている喫緊の自由かもしれない。
でもできることなら、野良猫の自由と家猫の自由の両方を追求したい。
要はバランスの問題なのかもしれない。
>でもできることなら、野良猫の自由と家猫の自由の両方を追求したい。
要はバランスの問題なのかもしれない。
しかしながら、その両立が不可能なことを唯物史観は我らに教えてくれる。
「病葉は若芽によって排除されねばならぬ」と。
懇切丁寧なお答えをありがとうございました。たいへん良く理解できました。
>厳しい環境にある野良猫は「自由」こそあるものの、寿命は短い。他方で、家猫は家屋内での限定的自由しか許されないものの、食事と安眠できる場は保障されている。そのいずれかを選択するのは、最終的には人民の意思に依る(猫には選択権はない)。
人民の意思、そこがポイントのようですね。歴史の客観法則を基本とし、階級闘争をその原理とみるマルクス主義において、1)必要に応じた生産と分配が達成された社会における「原動力」はなにか。2)「誰がどのように」家猫の自由と家猫が求める必要水準を決めるのか(いいかえれば、過去の独裁と粛清の歴史をどう乗り越えられるか)。3)この体制において期待される「人間像」とはどのようか。例えば、資本主義においては、1)人びとの欲望、2)自由民主体制、3)独立心ある個人 でした。これらは日本の伝統的精神には馴染まないと私自身は思っています。しかし、戦後、パックスアメリカーナの温室の下で人びと自ら伝統的精神を放棄し、マルクス主義も唯物史観から前近代的な伝統的精神の自己批判を迫りました。近代主義という点では資本主義も社会主義も同根であり、自由なき家猫への道筋がなかなか見えてきません…。スレと関係のない話題が続いて失礼しました。今後も勉強させていただきます。ありがとうございました。




































