在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
経済思想、社会思想、政治思想、法思想
マルクスとかハイエクとかサンデルに興味のある人、哲学とかに憧れる人向け。
史的唯物論(唯物史観)的な考えがドイツ・イデオロギー・経済学批判などの中で見受けられるが故に、その正しさを具体的に証明しようとして資本論が書かれたと見て良いと考えます。それゆえ、口に出さないのは当然でしょうね。
周知のように、マルクス自身が執筆した資本論第1巻ならば、そうしたことも考えられる。しかし、エンゲルスらがマルクス死後にその膨大な資料やメモなどをもとにまとめた2巻・3巻には唯物史観的要素は乏しい。むしろ、その中身は「資本論の構造」につき、明快に説明されている。いずれにせよ、その解釈には資本論学者間で議論があるようだ。それゆえ宇野も、資本論における唯物史観的表現は、革命家マルクスの心情等の表れとみるべきであり、「マルクス経済学_マルクス主義経済学ではない」の解釈・分析では、そうした部分は余剰物として省いて読むべきだと考えたらしい。それをまた黒田寛一も「スターリニストのごとく(教条的に)唯物史観で資本論を読むのではなく、資本論で唯物史観を検証するべきだ」と、宇野同様に指摘する。新左翼からみて宇野派はどうやら、「敵(スターリニスト)の敵は味方」との関係にあるようだ。
スターリニストたるローゼンターリ著『資本論の弁証法(上下)』(1956年、青木書店)を訳出した飯田寛一法政大名誉教授はその「訳者まえがき」で、次のように述べている。この方も正統派に近い方ではないかと思われるが、今から66年前にすでにこのように警鐘をならしていた。
「(・・・)ことに『資本論』で展開されている資本主義経済学の概念や範疇を形而上学的に理解したり、理論的命題を教条主義的に理解したりしないためには、『資本論』においてとらえられているマルクスの研究方法および叙述方法を正しく理解することが必要である。『資本論』で述べられている概念や範疇を、現実の経済的諸関係との連関からはなれて説明したり、個々の概念や範疇を全体や相互の連関からきりはなして取り上げたり、個々の命題を勝手に取り出して現実を自分にとって都合のよいように説明する方法が、マルクス主義とは縁もゆかりもない主観主義的態度であることは、言うまでもない。しかし、従来の『資本論』研究において、またマルクス主義的経済学一般において、こういう傾向が相当に強かったことは、否定できない」
古典派経済学は「労働の価値Wert der Arbeit」が労働力の価値であることに気づかなかったということ(『資本論』第6篇労賃 第17章労働力の価値または価格への転化)。このような表現は、労働力の価値または価格の不合理な表現であり、他の現象形態と同じく資本主義的生産の本質的関係を隠ぺいするものだとされる。




































