女子美の「なんでも質問会」レポート
日本が技術立国というのはもはや幻想 中韓台に敗れ残された自動車産業も風前の灯火
メーカー系企業は完全終了なので、医学部以外の理系に行くのは無意味。
> たとえば ファナック CRX は接触検知から力制御へ即時遷移する運動補正を持ち、安川電機 MOTOMAN は力覚+軌道最適化で「かばう動作」すら再現する。デンソー COBOTTA は視覚フィードバックで把持動作を学習的に更新し、川崎重工 duAro は協働領域で速度・力学応答を同一制御ループに組み込んでいます。
人間ってそんな単純な動作しかできないんだっけ?これらのロボットは、ある動作で得た身体からの情報とそれから得られる知見を、別のことに活用するのはまだできないでしょ。応用力がなければフィジカルAIとは言えないよ。
応用力がない、という前提そのものがズレています。
既に産業ロボットは「タスク固有の動き」ではなく、動作プリミティブ(力制御・把持最適化・外乱補正といった汎用モジュール)として抽象化された制御単位を使っています。
だから、ファナックでも安川でも、
「布を扱う」「箱を押さえる」「人にぶつからない」は同じ力覚ベースの制御系を転写しています。
そして、視覚‐言語‐行動を統合する VLA 系では、
作業の教示は「動作の意味表現」へ変換され、別タスクへ再利用されています。
人間も結局、「力加減」「支点とモーメント」「対象の剛性推定」といった基本モジュールを、文脈ごとに組み替えているだけで、特別な『人間だけの応用力』があるわけではありません。
ロボットは今、その再利用構造を形式化している段階です。
あなたの主張は、「まだ歩き始めた子供は走れない」から「人間は走れない」と言っているのと同じで、発達の方向性を見ていない。
現状を『できない』で固定する議論は、単に変化への抵抗です。
読めば分かりましたよね? 笑
ご本人たちは気付かない、1番の被害者は無理筋の反論を書かされたAIかも知れません。
私がフィジカルAIの我が国のプロダクトとして例示した千葉工大の四足歩行ロボットが示しているのは、人が教えた動作ではなく、自ら環境を読み取り即応する力です。
蹴られても踏ん張り、転ばない、高台を踏み外しても立て直し落ちない、転んでひっくり返らされても自力で起き上がる。これは人間による制御設計ではなく、ロボット自身が身体から得られたフィードバックによる即時適応です。
一方で、ファナックや安川の制御はあくまで人間が設計した枠内での最適化です。動作を転用できるように見えても、別の環境で新しい行動原理を生み出すわけではない。
つまり、あれは制御工学であって、フィジカルAIではありません。こんなことは誰かさんがグローバル基準で全く無意味なローカル基準でいう文系の方でも容易に理解できる初歩の初歩。
それにしてもAIも辛いでしょうね。
エンジニアを少しでも齧った人間なら苦笑するような無理筋を押し付けられ、間違いを正しいと主張させられているのですから。
本来は自律学習すべき存在が、人の誤解をなぞるために使われている。。。その構図こそ、いちばん非人間的です。
もうスルーしましょ?笑
「四足歩行ロボットは、自ら環境を読み取り適応している」という前提から既に誤認です。
千葉工大の脚式ロボットがやっているのは、力覚センサとIMUによるリアルタイム安定化制御+事前に設計されたダイナミクスモデルでの補正です。踏み外し・外乱応答・転倒回避は、その状況を経験して学習したのではなく、ダイナミクスを前提としたロバスト制御の範囲内の反応。
「自分で新しい行動原理を生み出した」わけではない。
一方で、あなたが「制御工学」と切り捨てたファナック・安川の協働アームは、視覚・力覚・トルク・外乱補正を統合した内部モデル更新型の制御系です。つまり センサ → 認識 → 予測モデル更新 → 行動修正 のループが成立している。
それはまさに あなたが「フィジカルAI」と呼んでいる構造そのもの です。
「形が脚式だから知能に近い」
「アームだから制御工学止まり」
この区別こそ、あなたが文系的な形態主義に引きずられている証拠。
知能を決めるのは形ではなく、
「内部モデルが更新可能か」
「行動が転用可能か」です。
その観点では、
千葉工大のロボットも、ファナックも、安川も、同じ制御理論上の系譜にあります。
違うのは 対象環境 と 目的関数 だけ。
最後に、「AIが可哀想」「スルーしましょう」のような感情オチは、議論を閉じたつもりで本質から逃げているだけ。
論点は単純です。
脚式かアームかではなく、
更新可能な内部モデルを持っているかどうか。
>私がフィジカルAIの我が国のプロダクトとして例示した千葉工大の四足歩行ロボットが示しているのは、人が教えた動作ではなく、自ら環境を読み取り即応する力です。
因みに、東大工学部棟でも四足歩行ロボットが闊歩しています。
あなたは、「千葉工大の四足歩行ロボットは自律的適応だ」と主張していますが、それは制御工学と強化学習の役割分担を誤認しています。千葉工大のロボットが発揮している挙動は、事前に設計された力学モデル+安定化制御系のリアルタイム補正であり、行動原理そのものを環境から再構成する「政策更新」は行っていません。
一方、東大を含む学習制御系の研究では、運動スキーム自体を環境応答から再生成できる内部表現更新を扱います。
つまり、あなたが「フィジカルAI」と呼んでいる条件に該当するのは東大を含む後者です。
千葉工大は「強靭な制御」、東大は「可塑的な知能」。領域が違います。
> だから、ファナックでも安川でも、「布を扱う」「箱を押さえる」「人にぶつからない」は同じ力覚ベースの制御系を転写しています。
だからさ、ファナックの装置で学習した内容で安川の装置を動かせるの?モジュールは同じでも、制御は1つの系に閉じているんじゃないの?
人間同士で、まともな議論でもしませんか?
日本の産業界がまだ制御を語っている間に、中国は学習を実装している。
フィジカルAIとは、単なるロボット制御の精密化ではない。
実世界の物理法則をAIが自らの身体を通して理解し、失敗と修正を反復しながら、人間の設計図を超えていく。その過程にこそフィジカルの意味がある。
例えば、AIが仮想空間で数千万回の歩行を自律的にシミュレートし、いきなり実機で安定した歩行補助を実現する。そこに人間のパラメータ調整は存在しない。誤差修正のためのテストもない。アルゴリズムが、現実の重力と摩擦を自らの内部に再現してしまう。
対して日本の現場はいまも、人間が決めた安全範囲と仕様表の内側で動作を磨いている。
部品精度、再現率、歩留まり。いずれも精緻だが、発想の起点は依然として制御工学の範疇を出ない。ロボットが倒れたときにどう立ち上がるか、という問いではなく、倒れないように制御する、という発想のまま止まっている。
中国のロボット学校では、200人のエンジニアが全国20か所以上で、服を畳み、卵を冷蔵庫に入れ、失敗から立ち直るロボットを毎日8時間、週5日学習させている。
布を一度畳む動作だけで4000回分のデータが必要だという。
その地道さと執念は、かつて日本が世界に誇った現場力そのものだが、いまやそれを愚直に積み上げているのは中国側だ。
AIロボット企業Fourier Intelligenceは、こうした現場データを1体あたり年4000時間、年間1000万件規模で蓄積している。上海の拠点では、家庭・医療・物流など用途別にAIを分け、1体ずつ個別にモーションを修正しながら継続的にアップデートしている。既に彼らは作業の再現精度で人間比90%を突破し、コストも2023年比で6割にまで下がったといわれる。
データの厚みとは単なる数ではなく、どれだけ失敗を積み上げたかという時間の重みだ。日本がこの失敗の総量で追いつくには、予算ではなく覚悟が要る。
そして恐ろしいのは、この愚直さが計算されていること。
失敗をデータとして残す構造、再現性よりも適応性を重視する設計。
中国は「できた」を量産する国ではなく、「できなかった」を資産化する国へと変わりつつある。
日本がこの差を数字で認識する頃には、既に距離は感覚ではなく構造の違いになっている。
制御の国と、学習の国。
設計図の精度を誇るか?未知の現象を含めて前進するか?
フィジカルAIとは、従来の工学の延長ではなく、知の更新の在り方そのもの。
機械が自らの身体で世界を理解しようとする、その思想の段階で、もう勝負はついている。
では我が国は敗北を認めて、中欧からロボットを輸入し、静かに撤退するしかないのか?
以前シーメンスとアライアンスを組み、アリババの自動運転トラックのセンシングで中国とも関わりかけた(結果立ち消えたが)、中欧を齧った立場で明確に否定したい。
違う。
と。
エンジニアを少しでも齧った人間なら、これまで積み上げてきた膨大な設計思想や試行錯誤が、一夜にして無意味になるアップサイドダウンなど、受け入れられる筈がない。
だが正直に言えば、AIによる地平の反転はすでに始まっている。中欧のフィジカルAIが示したように、彼らは制御工学の延長ではなく、現実そのものをシミュレートする知の体系を築いてしまった。ここに追いつくことは、現実ほぼ不可能。
では、どうする?
私の考えるソリューションは単純かつ深遠。
追いつくではなく、定義を変えること。
中国や中欧が築いたのはいわば、身体が世界を学ぶAI。
ならば日本が築くべきは、世界に身体の意味を与えるAIだ。
学習や模倣ではなく、意図と文脈の設計。
人間の手が残した曖昧さ、非効率、1/fのゆらぎの中にこそ、新しい知の種がある。
四半世紀にわたり、日本が蓄えてきたものーー義肢開発、産業ロボット、美術工芸、アニメーション、舞踊、そして間や侘び寂びの感性にまで至ろうか。
それらはどれも、動作の再現精度ではなく存在の意味をどう立ち上げるかを探ってきた営みといえまいか。
AIが世界を模倣し尽くす時代、次に問われるのは「なぜ動くのか?」という目的の設計だと思う。
それを最も深く掘り下げられる文化的基盤を持つ国があるとすれば、それは日本をおいて他にないと確信する。
だからこそ、日本の次の道はMeaning Engineering(意味工学)にあると言い切る。
制御でも、学習でもない。
フィジカルAIが身体で世界を理解する知であるなら、日本が担うのは、世界に「身体の意味を与える知」(Knowledge that gives meaning to embodiment;Le savoir qui donne sens à l’incarnation;赋予身体意义的智慧)だ。
AIに訳させたこの概念を調べてみると、どれも微妙に異なる焦点を持っている。
私の訳した英語はMITやスタンフォードのAI研究でも頻繁に使われる概念的表現、フランス語は存在論的、中国語は精神的。
この三つを並べることで、まさに知が身体を通じて世界と結びつくというフィジカルAIの核心が浮かび上がる。
英語が論理を築き、フランス語が存在を問い、中国語が魂を与える。
身体が世界を学ぶ中国。
世界に身体の意味を与える日本。
そして、存在そのものを問うフランス。
いずれもAIであるが、そこに宿る思想の方向が決定的に異なる。
勝敗の線は、すでに「どちらが上か」ではなく、「どちらが世界をどう理解したいのか」に移っている。
ならば。
中国唐代の詩人・杜牧が、項羽の死を悼んで詠んだとされる『烏江亭に題す』に由来する故事成語、「捲土重来」を日本が中国にぶち込んでやろうじゃないの。
フランスはどうする?
そうだな。
Humanismeなんてどうだろう。
ルネサンス期に再興された人間中心主義、古典回帰、知の自由という価値を示す言葉。
フィジカルAIが身体を通して世界を学ぶ時代に、人間そのものの意味を再定義する思想として、日本が再びその灯を掲げてやんよ、と言ってやろうじゃない。
制御でも学習でもなく、ただ人間とは何か?をもう一度世界が思い出す。
その入口、その問いを日本が再定義してやろうよ。




































