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東大の基礎研究がショボすぎる、国の予算をほとんど独り占めしているのに

【7717891】
スレッド作成者: 理一 (ID:QxAsoYjdQXk)
2025年 10月 08日 19:14

東大理一に進んだ者です。東大からノーベル賞が出にくいのは大学の理念というかシステムに問題があるからだろうと思います。所謂進学振り分けです。全教科の試験の平均点が高い順に志望学科への進学が可能になります。ですから語学や人文社会科学が苦手だと志望学科に進めません。つまり異能の持ち主がその分野に進めないケースが出てくるのです。数学や物理が凄まじくできてもそれだけではその学科に進めません。東大は自らそういう異能者たちを締め出しているのです。さらには受験で国語や社会までやらなければなりません。ほとんど時間の無駄。この仕組みがある限り東大からのノーベル賞受賞者は増えないと思います。

【7726068】 投稿者: 保護者   (ID:zQuwugnrUIQ)
投稿日時:2025年 10月 27日 07:28

全部既にやってる。おそらくそれ以上の観点からも。

【7726076】 投稿者: Margaux   (ID:7o4akNa2i7k)
投稿日時:2025年 10月 27日 07:43

今は話は東大限定の話から科研費全般に及んでいたのですが。

まあ東大としても、未知を受け止める制度を掲げながら、その実質を伴わせるには至っていない。科研費全体を見ても同様で、理念と運用の乖離が構造的に存在している。挑戦的研究や若手支援といった枠組みは整っても、評価軸は依然として成果と安定を重視する指標に縛られている。未知を未知のまま評価する文化がまだ根づいていない。

問題の本質は、制度設計よりも思考の設計にある。審査する側が未知に耐える想像力を欠けば、どれほど柔軟な枠を作っても、結果は既知の再生産に戻る。未知を排除しないという理念が、審査員や研究者個々の判断体系にまで浸透して初めて、制度はその機能を持ちうる。

東大は国内では比較的その方向に敏感な機関だが、それでも国家的資金の配分構造に従属している限り、未知への真正な自由は担保されない。未知に触れるとは、単にリスクを取ることではなく、成果の概念そのものを再定義することに等しい。

未知を受け止める仕組みとは、失敗を管理する仕組みではなく、予測不能な知の生成を社会がどう共有するかという問いそのものだ。制度がそれを内包できるようになるまでには、まだ長い時間がかかる。

【7726081】 投稿者: 邪推   (ID:FRUxDz3.MHI)
投稿日時:2025年 10月 27日 08:01

> 複数年にわたる挑戦的研究を段階的に資金支援する仕組みを整えること。

そんなこと数十年も前からやっている。問題にしているのは研究テーマの方だよ。何が挑戦的研究なのかを誰がどうやって決めるんだ?どこでもドアを作るのは挑戦的研究なのか?
それに短期的に成果の得られる研究、実用化に近い研究ほど、研究計画書はしっかり書けるが、何に使えるかわからない基礎研究ほど曖昧になる。研究計画書で判断するのは非常に危険だ。

【7726084】 投稿者: Margaux   (ID:7o4akNa2i7k)
投稿日時:2025年 10月 27日 08:10

挑戦的研究という言葉が長年使われてきたこと自体が、制度の限界を示している。

形式としての挑戦は繰り返されても、その定義は常に既知の範囲に回収されてきた。

どこでもドアなーんていう安易な比喩を持ち出すまでもなく、本当に未知に属する研究は、そもそも既存の評価軸に乗らない。

だからこそ、何が挑戦的かを誰が決めるかという問いは、制度論ではなく認識論の問題になる。

研究計画書の完成度で未知を測ろうとするのは、光の速度を定規で測るようなもの。

未知とは整合性の中に現れるのではなく、整合性を超えたところで初めて形を持つ。曖昧であることは欠陥ではなく、生成の証である。制度がそれを危険とみなす限り、挑戦的研究という言葉は理念の衣を着た安全保障でしかない。

本質的な改革は、制度の外形を変えることではなく、審査の思考様式を変えることにある。理解できないものを保留できる審査。予測不能な計画を途中で捨てずに観察し続ける文化。その持続的な観察が、未知を受け止める唯一の仕組みとなる。

未知とは結果ではなく、制度がどこまで世界の不確実性を許容できるかという鏡。

その鏡を曇らせているのは、研究者でも審査員でもなく、理解できる範囲でしか世界を定義しようとする社会の側でしょう。

【7726111】 投稿者: 邪推   (ID:FRUxDz3.MHI)
投稿日時:2025年 10月 27日 08:46

> 未知とは結果ではなく、制度がどこまで世界の不確実性を許容できるかという鏡。

制度では無理でしょ。誰も未来を読めないのだから。だから、科研費というスキームはやめて、その金は運営交付金として国立大学に配布し、報告された結果に基づき事後に評価すればいい。事前に評価すれば必ず恣意性が入り込む。

【7726117】 投稿者: Margaux   (ID:7o4akNa2i7k)
投稿日時:2025年 10月 27日 08:51

制度では無理、という言葉は正しいようで浅い。制度は未来を読むための道具ではない。未来を壊さずに待てるかどうか、その耐性を試す場。

事前評価を捨てて事後評価にすべてを委ねれば、研究は検証ではなく結果集めに変わる。未知は結果からは生まれない。計画の途中で何が起きるかを観察し続ける、その時間こそが研究の本体。

運営交付金を増やしても、安定は保証できても生成は生まれない。未知とは安定を超える瞬間にしか現れない。だから制度がすべきことは、未来を読むことではなく、未来を塞がないことでしょう。

【7726131】 投稿者: 研究事務局   (ID:uJBWtqS78w6)
投稿日時:2025年 10月 27日 09:46

ここを見てると、書き込んでいる人は科研費の意味も知らないし、そもそも研究やったこと無いんじゃないかと思う。
特にこんな書き込みを見ると。
> 科研費は、私立大学が国から研究費を得るために作ったスキームに見える

私は以前どこかで、某Fランと呼ばれる私立大学の医療系キャンバスて、事務の仕事をしていると書いた者だが、今やってる仕事がその研究事務局だ。

医学研究の場合、症例つまり研究に協力してくれる患者さんを、出来るだけ多く集めなけれはならない。だから多大学共同研究がほとんどになる。
非医学系の研究でも、傾向は同じだ。
臨床研究法は研究ごとに「統括管理者」を定め、責任の所在を明確にするよう求めている。

「○○大学に科研費が支給された」という場合、その統括管理者になっている大学に支給されたという意味で、共同研究をやっている大学には私立も国立も無い。
だからどこの大学が科研費を多くもらったというのは、あまり意味がない。
Fランと言われるうちの大学も、統括管理者になっている研究があるので、かなりの額の科研費の支給を受けている。

【7726143】 投稿者: 邪推   (ID:FRUxDz3.MHI)
投稿日時:2025年 10月 27日 10:18

事後で評価するというのは、研究者個人の熱意や良心に任せるということ。国立大学はそれができる人を選んでいる。未来をコントロールしようするのはおこがましい。

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