今年入学した高1生が語る青春リアル
東大の基礎研究がショボすぎる、国の予算をほとんど独り占めしているのに
東大理一に進んだ者です。東大からノーベル賞が出にくいのは大学の理念というかシステムに問題があるからだろうと思います。所謂進学振り分けです。全教科の試験の平均点が高い順に志望学科への進学が可能になります。ですから語学や人文社会科学が苦手だと志望学科に進めません。つまり異能の持ち主がその分野に進めないケースが出てくるのです。数学や物理が凄まじくできてもそれだけではその学科に進めません。東大は自らそういう異能者たちを締め出しているのです。さらには受験で国語や社会までやらなければなりません。ほとんど時間の無駄。この仕組みがある限り東大からのノーベル賞受賞者は増えないと思います。
現場の実務感覚としての指摘には確かに一理ある。
ただ、科研費を金の流れとして語る限り、研究の本体は見えない。制度は研究を支える器ではあっても、知を生む主体ではない。金が動いても、思考が動かなければそれは単なる管理に過ぎない。
現場の仕組みは確かに精緻。
統括管理者の指定も、倫理審査も、共同研究の調整も、すべて必要な工程だ。しかし、それらは研究の安全装置であって、創造の装置ではない。制度がどれほど整っても、問いを立てる力が枯れれば、未知は生まれない。
科研費とは、誰が多く取ったかを競う制度ではなく、どこまで未知に触れられる社会かを映す鏡だ。金額の大小よりも、何に賭けたか。その一点だけが研究の温度を決めると思う。
未来をコントロールしようとする傲慢さと、未来を放任する無責任さは、実は同じ根を持つ。どちらも未知を自分の手で扱えるものと誤解している。
国立大学が良心ある研究者を選んでいるのは確かだが、制度が良心に依存している時点で、それは構造として脆い。熱意や誠実さは前提であって仕組みではない。
制度とは、個人の良心が疲弊したときにも、なお未知を支えられる構造でなければならない。
未来を支配しようとせず、かといって手放しもしない。その間にある緊張を保ち続けること。そこにしか、学術制度の成熟はない。
> 未来をコントロールしようとする傲慢さと、未来を放任する無責任さは、実は同じ根を持つ。
研究者個人の熱意と良識に任せるのだから放任ではないでしょ。事後評価するとも言っているのだから。それがおかしいというのなら、そもそも憲法23条で学問の自由なんて保証しないよ。
> 制度とは、個人の良心が疲弊したときにも、なお未知を支えられる構造でなければならない。
個人の良心が疲弊するのは教育や環境の問題であって、もはや制度でどうにかなるものではない。枠にはめた研究は、枠にはめた中高の探求学習と何も変わらない。
学問の自由は放任の免罪符ではない。自由とは、誰にも縛られない状態ではなく、自らの原理で自らを律する能力のことだ。
事後評価が成り立つのは、研究者が内側に倫理と構想の軸を持っているからであって、それを制度がどう支えるかが問われている。自由を守るとは、個人にすべてを委ねることではなく、その自由が空洞化しないように枠を磨き続けることだ。
制度は自由の対立項ではない。制約を通してこそ、自由は形を持つ。学問の自由があるのは、社会がその自由を信頼するからではなく、制度がその自由の重さに耐えられるよう作られているからだ。
> 学問の自由は放任の免罪符ではない。自由とは、誰にも縛られない状態ではなく、自らの原理で自らを律する能力のことだ。
だから憲法12条で、自由を濫用するな、常に公共の福祉のために利用しろと戒めているだろ。逸脱したら当然自由ははく奪されるよ。でも制約はそこまで。
本来研究は人の内部にある知的好奇心から始まるもので、制度で枠にはめるものではない。枠にはめたら広がりがなくなってちっぽけな成果しか出てこない。枠を取っ払って人がもつ可能性を信じないと偉大な成果は生まれない。




































