今年入学した高1生が語る青春リアル
東大の基礎研究がショボすぎる、国の予算をほとんど独り占めしているのに
東大理一に進んだ者です。東大からノーベル賞が出にくいのは大学の理念というかシステムに問題があるからだろうと思います。所謂進学振り分けです。全教科の試験の平均点が高い順に志望学科への進学が可能になります。ですから語学や人文社会科学が苦手だと志望学科に進めません。つまり異能の持ち主がその分野に進めないケースが出てくるのです。数学や物理が凄まじくできてもそれだけではその学科に進めません。東大は自らそういう異能者たちを締め出しているのです。さらには受験で国語や社会までやらなければなりません。ほとんど時間の無駄。この仕組みがある限り東大からのノーベル賞受賞者は増えないと思います。
「正解のある問題」と「正解のない問題」を登場させて、その対比で批判をするというのはパターン化されているが、このパターン踏襲は正解のない問題に対する回答なのだろうか?
そもそも「正解のある問題」とは何かというと、「知識」を単純に問う問題で、これ知ってますかということである。少なくとも、東大で「正解のある問題」は漢字の読み書きの問題くらいで、それ以外は、基本、知識をベースに論理を組み立てて解答しなければならない問題の方が多いように思う。
この東大の元教員は、学生に求めるものが高いようで、東大といえども中央部や、下位の学生を対象にすれば、ここに述べられていることが当てはまるのかもしれないか、上位の学生を対象にすれば、まったく当てはまらないと思う。旧帝大の上位層の学生は、それなりに優秀で、「正解のある問題」も「正解のない問題」も、どちらにも強いと思う。ただ、現状はその割合が減ったのかもしれない。
うーん。
あなたの議論は、表面的には「正解のある/ない問題」の分別で学生の能力を整理しているように見えますが、実際には二つの大きな誤解が。
一つ目。
「正解のある問題=知識、正解のない問題=論理」と単純に二分すること自体が、東大上位層の学生の学びの実態をまったく捉えていない。
上位層は、知識も論理も素材に過ぎず、重要なのはその知識と論理を組み合わせて未知の問題にどう応答するかです。
二つ目、あなたが「上位層なら両方に強い」と言うことで、能力の絶対化に逃げ、問題の本質的な構造、すなわち「正解のない問題に対する思考の深さや発想の自由度」を検討から外していること。
結局、提示された「正解のある/ない問題」の対比は、思考停止した安心感に過ぎず、正解のない問題に真正面から応答していないのです。
正解のない問題を解けるようになるためには、その前提として答えが決まっている問題が解ける必要があると思うのだが。基本問題ができずに応用問題はできないのと一緒。
現在の大学で行われているAO入試で起こっている事は、基礎科目を減らして小論文や面接で安易に青田刈りをしてるのが実態ではないか?
個人的には東大は基礎科目をきっちりできる人間を選抜した方が良い。文系でも2次試験に理系科目を入れてもいいし、理系の試験科目に経済や哲学の問いを入れたっていいと思うのだが。
うん。
それは「正解のない問題」を、あくまで「正解のある問題の延長」としてしか見ていない発想ですね。
確かに基礎は必要ですが、基礎を積んだからといって、正解のない問題に応答できるようにはならない。むしろ逆で、正解のない問題に挑む経験の中でこそ、基礎の意味が立ち上がってくる。
AO入試を安易な青田買いと切って捨てるのも早計で、本来問われるべきは、知識量よりも未知の問いに対してどんな知の使い方をするか、その方法論の精度と射程です。
東大が科目を足すか引くかではなく、正解のない問題に向き合うための知性の訓練をどう設計するかが、本質的な議論だと思います。
> むしろ逆で、正解のない問題に挑む経験の中でこそ、基礎の意味が立ち上がってくる。
それは違うな。正解のある問題に取り組むことで、答えを出すための原理原則を理解する。そして理解した原理原則をもとに、正解のない問題に取り組み自分なりの答えを出す。原理原則も知らずにいきなり正解のない問題に取り組んでも、どこから手を付けてよいかわからない。
だから、中等教育の到達点を問題解決ができることとし、課題解決は高等教育の範囲としている。
原理原則を理解してから応用に進む、という線形モデルは、20世紀型の知識伝達教育の発想に過ぎません。
実際には、正解のない問題に取り組む過程そのものが、原理原則の意味を再構築し、知識を動的に組み替える契機になります。
数学や科学の歴史を考えてみてください。
常に既存の原理を守った者ではなく、原理そのものを問い直した者が次の知を開いてきたではありませんか。
だからどこから手をつけてよいかわからないという状態こそ、教育の出発点にすべきなんです。
中等教育で「問題解決」、高等教育で「課題解決」という区分も、もはや時代遅れ。
今の知の課題は、解決可能な問題の外にある。正解のない問題に手を伸ばせない教育こそが、原理原則を形式だけにしている本当の原因です。
これは私の知人のトヨタ元役員の方も異口同音に仰っておられた事です。
東大はもはや日本人学生の8割くらいが東京圏と大阪圏の受験進学校出身でしょ。そりゃ解答のある問題にしか取り組んできていない層が大半になってるから、しょうがないでしょう。
京大も学生の属性は同じなので、東大と同じだと思いますけどね。
受験進学校ルートって、問題を解く中では頭を使うけど、そもそもどの問題を解くべきか、何を勉強すべきかみたいな大枠の課題探索をせずに小中高を過ごします。社会人で必要な課題探索とか設定能力みたいなののトレーニングを一切しないのと同義です。東大京大に入るまでは近道なんですけどね。
地方の非受験校だとそもそも何の勉強をどうやったらいいか、みたいなあたりから始まるので、東大京大には回り道ですが、社会人になってから必要な素養は身に着きます。
ただそもそも東大京大にほぼ入れないので、難しいところですね。
それは見えている範囲が狭すぎますね。
進学校出身者が「正解のある問題」しか解いてこなかったというのは、表面的な観察に過ぎない。
中にいた身からすれば、実際の問題は、どの問題をどう解くかよりも、どんな構造の中で問いが設定されているかを意識できるかどうか。
進学校の弊害は、課題探索の欠如ではなく、既存の課題設定を疑う訓練の欠如にあります。
地方校がそれを自発的に培うという話も、単に「構造が緩い中で偶然自律性が生まれる」現象であって、制度として設計されているわけではない。
要するに、都市と地方、近道と回り道という対比の次元で教育を語っている限り、問題の核心には永遠に届かない。
東大や京大の本質的課題は、「解答のある問題を解ける能力の上に、どこまで問いそのものを再定義できるか」という知の射程にあるのです。




































