今年入学した高1生が語る青春リアル
東大の基礎研究がショボすぎる、国の予算をほとんど独り占めしているのに
東大理一に進んだ者です。東大からノーベル賞が出にくいのは大学の理念というかシステムに問題があるからだろうと思います。所謂進学振り分けです。全教科の試験の平均点が高い順に志望学科への進学が可能になります。ですから語学や人文社会科学が苦手だと志望学科に進めません。つまり異能の持ち主がその分野に進めないケースが出てくるのです。数学や物理が凄まじくできてもそれだけではその学科に進めません。東大は自らそういう異能者たちを締め出しているのです。さらには受験で国語や社会までやらなければなりません。ほとんど時間の無駄。この仕組みがある限り東大からのノーベル賞受賞者は増えないと思います。
試験形態の話は確かに正しいが、論点が浅い。
制度や形式が生む秀才の差異を並べても、それは教育制度の外殻を撫でているに過ぎないよ。
東大という存在の特異性は、評価や選抜の技術にではなく、その結果として社会の価値分布をどう変質させてきたかにある。
東大は「能力の頂点」ではなく努力が制度化された到達点よして機能してきた。その内部では、能力差や不公平が当然の前提として受け入れられており、そこに倫理的な葛藤は殆どない。
だからこそ、東大にはルサンチマンが生まれない。嫉妬や怨嗟の感情が発火する以前に、構造全体が冷却されているから。
フランスのように、不平等を政治的・哲学的課題として語る社会とは根本が異なる。
日本では、東大がもはや「比較」や「嫉妬」の対象ですらなく、遠い制度的装置として沈殿している。
つまり、東大は格差を象徴するのではなく、格差の感情が届かない真空の中心にあると言える。
その意味で、今日の東大はエリートの象徴ではなく、むしろ社会の熱量が失われた時代の鏡像だよ。羨望も敵意も届かず、ただ「遠くに存在している」だけの場所。
問題は、そこに生まれる冷めた安定こそが、この国の停滞のかたちだということだ。
これは大学入学資格試験だけでなく小学校から口頭試験、論文試験をやっているから。欧州は経済状況にかかわらず一クラスが20人程度なので先生と生徒との質疑応答が学校で普通に行われている。
個人的な質問をしないまま大学までマークシートで進む日本の学校とは大違いだ。
アジアは人口が多いからこのような手厚い教育は無理なのだろうと思っていたが、少子化の今はチャンスなのでは。
答えのない問いを立てるには、自分の疑問、自分の意見を躊躇なく述べ、先生も既成の答えを押し付けない姿勢が重要だ。学問は全て、今わかっている事に過ぎない(新しい発見があれば答えは変わる)、という認識を教員が持つべき。
13年前京都の動物園近くの建物で英国からの学者の講演会があると誤解し、入ったら授業中だった。講師の女性がキングズ英語で喋る傍ら、無言で気だるそうな若者が多い中、拙い英語で必死に話す人もいた。
私は京大の何かの授業に紛れこんでいたようだ。
模試採点をしていて京大英語は難しいと思っていたが、話す能力は高校の訳読式教科書からは得られない。会話が出来たらもっと授業もはずむのにもったいないなあと思って帰ってきた。
東大の男子学生こそが一番勉強だけにこだわってないです。
同じような逆差別というか、東大の男子は勉強だけだと、何十年もステレオタイプなことを言われ続けてるから意識が違う。
さらに言うと男子校出身者は特に+スポーツとか、+芸術とか、+ビジネスとかの意識が非常に高い。
京大が異彩で東大生が秀才とかも、過去の昔っからあるステレオタイプで、単純な意識がワンランク東大のほうが上です。
特に首都圏の東大に多数いく男子校勢でいうとインターハイにでた開成の水泳部や、アメリカに野球で挑戦した桐朋の野球部の方、甲子園で優勝した慶應もしかり、他にも今年の東大アメフトは非常に強く既にトップリーグで2勝してるけど、麻布や首都圏じゃないけど大阪海星など男子校出身が主力。
東大生に限らず、スマホのお陰で皆知識は豊富になった
その知識を有効に使う知恵のあるなしの差が大きい
知識が豊富な事はとても良い事だけど、知識があり過ぎるとブレーキを踏む回数も増える
知識が無いと怖さもないから動きやすい
知識も大事だけど、知恵と行動力も大事
知識が行動を止めるのは臆病ではなく単に予測ができるから。
東大生の多くは、動く前に構造を読む。だから無駄撃ちが少なく、効率が高い。
一知識が浅いまま動けるモブは勢いが武器ですが、それは短距離走に強いタイプ。
長期的には、知恵と知識の両輪を持つ人間が残る。
東大の男子校出身者が強いのは、知識でブレーキを踏むのではなく、知恵でカーブを曲がる術を知っているからですよ。
どの国も学校教育の内容は大同小異で、日本の教育がおかしいわけではありません。答えのないことを考えるのは大学院でやることですが、唯一海外と異なるのは日本は大学院を軽視していることです。
少なくとも博士を持っている人でないとノーベル賞級のイノベーションなどを起こせるわけがありませんが、多くの優秀な若者が実利を優先して学部で学業を終わらせています。学歴エリートでもなんでもなく、要するに日本は低学歴だと思います。世界で発言できないのも納得です。
博士号の有無をイノベーションの条件と誤認している時点で、発想が旧態的ですね。
創発の本質は資格や学位体系の外にあって、寧ろそれらを相対化するところから始まるのでは?
制度に守られた知の専門職が革新を生む時代は終わりました。
現代の知的突破は、境界の交錯と異分野の衝突、そして問いの設定力から生じています。
博士号が評価されるのは形式的専門性の証明としてであって、創造的実効性の保証ではありません。
ノーベル賞に象徴されるのは学位ではなく、問いの独創性と社会的インパクト。
博士でなければ革新できないという発想自体が、まさに日本の停滞の温床でしょう。
制度への信仰が深すぎて、個の思考と実践が軽視されている、それこそがこの国の教育の本質的おかしさでは?




































