今年入学した高1生が語る青春リアル
AO入試は危うくあるませんか?
やたら総合選抜やAO入試がもてはやされているが、従来必須としてやってきた数学、物理、化学などの基礎知識は理系大学生なら誰でも必要でしょう。
大学学部以降も知識を積み上げ、最先端レベルにたどり着く為には基礎学問をマスターしていなければどうしようもなりません。大学院の授業が理解できない。
また、法学部や文学部、経済学部の学生も生物や進化の基礎、宇宙の成り立ちを知っておく必要もあります。
厚労省の予算配分に当たる財務官僚も最新の生物の知識や癌医療について知らなければ何が必要かのやりとりも出来ない。他の官僚達もAIや新型原発、核融合、宇宙などもある程度の知識がなければ国会答弁も書けないでしょう。
AO入試だからといって基礎の抜けや落ちがあってはまずい。この点東北大などはきちんと確認しているのだろうか?
基礎知識がない理系などいらない。
>そもそも共通テスト自体改悪である。本来であれば二次試験の受験を受けられる能力があるかの判断材料なはずだが、
共通テストは大学入学資格試験とすべきでした。大学や学部学科により基準点を変えればいいですが、大学教育を受けるに値する最低ラインは設けた方がいいです。
>国立大は税金投入も多いことから、一般試験でも面接必須にすべき。筆記試験合格者を定員の110%程度にして、10%は面接で落とすようにすれば、
面接を必須にすると手間がかかるので、それより進級を厳しくして、さらに他大学からの編入も受け入れて毎年一定数が入れ替わるようにした方がいい。
>日本は一部の天才ではなく、多数のそこそこ優秀な人材が支えている。変人は不要。
明治から昭和の頃は奇抜な人材が牽引し、数多くのそこそこ優秀な人材がそれを支えていたのでは?
>また、試験は平等であるべきだが、公立高校と中高一貫校では環境が違いすぎる。国公立は「国公立高校枠」を作るべき。特に東大は日本の高校生の私立と公立の割合と同じように定員を作れば良い。
機会の平等より結果の平等を優先すると共産主義国の経済みたいにならないか?国公立高校枠より入学定員を増やして入学後の競争と選別を促した方がよい。
>公立高校枠なんて作ったら逆に不公平です。
結果の平等より機会の平等、競争と選別こそが強くするという考えです。でも、もし東大に国公立高校枠を作るならば、毎年入学生を出す国公立高校ではなく、過去10年以上入学者ゼロの地方の名もなき公立高校の共テ8割以上を対象とするとよいかもしれない。
スレに書かれている文理問わず、文系素養理系素養を学ぶことは私も必要と思ってます。
だいたい難関大学に進んで、法律家や政治家、学者、科学者、医師などになっていく人たちも両方の素養を持ち合わせている人が多いし、レベルの高い人はその中の専門性で仕事していると思います。
逆に特化して、技能として商売、あるいは職人、職能に限定してスペシャル目指す人もいますが、年いけばどこかで自然と逆の素養の必要性もわかってくることもあるのかなと思いますが。
本来のAO入試は、企業の採用面接みたいなもので、この会社(この大学学部)に入ったら、何やりたいか、どうしたいか、何をしてくれるか それが企業組織、大学学部と合致するか、がメインのはず。
さらに総合選抜となったのは、加えて、共通テストで現学力をみる、高校時にどのような活動したか学力は(過去)、前述の未来は、の3つの観点での選抜方式がメインと思います。
欧米含む世界の大学のスタンダードに近いのかもしれませんね。
文理の素養が大切という考えには同意します。ただ、多くの人がその意味を浅く捉えすぎていると思います。文系の知識と理系の知識を並べて覚えることが目的ではなく、ものの見方を複数の角度から捉える力を持つことが本質です。知識の足し算ではなく、視点の掛け算が必要なのです。
専門を極める職人であっても、いつか自分の技を言葉にして伝えなければなりません。理屈のない技は継がれず、理屈だけの技は生き残れません。だから本当に優れた専門家ほど、他分野の構造や考え方を理解しています。文理の素養とは、知識の多さではなく、世界をつなぐ思考の柔軟さなのです。
AO入試についても、理念としては本来の姿に戻ってきたと思います。けれども今の実態を見ると、「やりたいこと」を言葉にするだけの形式にとどまっています。世界標準を真似ることよりも、その基準が生まれた背景にある思想や社会のあり方を理解する方が大切です。
入試の形だけを変えても、学びの本質は変わりません。選抜とは点数でふるい落とすことではなく、大学と志願者がどこまで共鳴できるかという対話の場であるべきです。その緊張がなくなれば、どんな制度も形骸化してしまいます。




































