今年入学した高1生が語る青春リアル
旧帝かマーチ
ちなみに東大に入れる実力はありません。
偏差値的には、地方旧帝かマーチなら入れそうです。
早慶は下位学部なら狙えますが、志望学部は無理です。
正直地方の生活は想像できず、まだ大阪ぐらいならとも思うのですが、関西弁がキツすぎて、マーチかなと思っています。
学歴も大切だが、そんなもんその後の本人の努力次第でどうにでもなる。
しかし、それなりの学歴があれば、適当に生きても大丈夫なのは確か。
勉強したことは人生において必ず実になる。
還暦過ぎのタイトルの中の大学卒の人間が言うのだから確かだ。
ありがとうございます。
どなたかが言っていましたが、35歳以上の大人が、Z、α世代に何のアドバイスもできない、足を引っ張るだけだと。
その通りだなと思いました。あなたの書き込みを読んで。私は35歳以下ですが私にも無理だと思います。
あなたが孫正義や柳井正、三木谷浩史、イーロン・マスクならば別なのでしょうが。
学歴や資格でチャンスが増えるという話は事実ですが、それは増えていく社会を前提にした論理です。椅子の数が増える局面では、フィルターを一段上げれば次が見える。しかし椅子そのものが減っていく局面では、同じ助言は単なる消耗戦の勧誘になります。
Z世代やα世代が直面しているのは、努力すれば通過できる関門が用意された世界ではなく、制度全体が収縮し続ける世界です。その中で努力論だけを投げるのは、地図を渡さずに走れと言っているのと同じです。
だから必要なのは、個々のフィルターをどう越えるかより、どのフィールド自体が拡張されるのか、どこは確実に縮むのかを見極める視点です。それを語れない大人の助言は、善意であってもZやα世代にとっては無意味だと思います。
企業側からしたらエントリーシートや人事面接だけで人材としての適正を測れるはずないんだから、過去の内定者が入社後どのくらい活躍しているかという実績を参考にしてると思います。
私は他の大学でしたが、マーチ出身者はバランスが取れていて優秀な人の割合が高いです。語学をやれとか宅建士取れとか業界資格取れと命令したらちゃんと習得できるくらいの能力があるのが望ましい。
こういう母集団に入る努力を中学高校のうちからできる人物というのはプラス評価になります。
真っ当な現場感覚だと思います。ただ、その話は採用側の合理性の説明であって、若い世代への指針にはなっていません。
企業が過去の実績から母集団を絞るのは当然です。人事として合理的です。ただそれは、どの大学群が既に選好されているかの事後説明に過ぎず、これから進路を選ぶ側にとっては出口の話でしかありません。
マーチ出身者が優秀に見える、指示された資格を取れる能力がある、という評価も分かります。ただ、それは結果としてそういう層が集まる構造があったという話です。中高時代からその母集団に入れる人物かどうか、という言い方は、結局、早い段階での選別が前提になっています。
私が言っているのは努力の否定ではありません。どの努力が、どのフィールドで、どの程度のリターンを持つのか。そのマップを示さずに、母集団に入れと言うのは、若い世代にとっては再現性のない助言になります。
企業側の論理と、進路選択の指針は別物です。その切り分けをせずに努力論だけを語ると、制度の収縮を個人の資質に転嫁することになる。そこに違和感があります。
昨年度のノーベル平和賞を受賞した日本被団協の創始者にして初代事務局長が早稲田大学の卒業生である藤居平一氏です。
もっと知られても良い功績が他にも多々ある方です。
現在の事務局長の濱住治郎氏と代表理事の田中聰司氏も早大の卒業生です。
大学は旧記念会堂を原水禁世界大会の会場として提供していた時期もあり(当時の大濱信泉総長が藤居氏の熱意に打たれて尽力して下さったそうです)、関係性は非常に深いです。
無論、一団体が受賞すれば万事解決などということはなく、次の世代に活動の理念と熱情を如何にして伝えていくかが、今後の人類の課題と言えるでしょう。
受賞から1年になりますが、まずは大勢の早稲田大学関係者から、その意義を噛みしめて頂きたいです。(実際、大半の早稲田の方々は、受賞の事実を御存知ないのではないでしょうか。
まずは多くの人が知ることが、大きな力の源泉になると思います。)
日本被団協の活動や、そこに早稲田関係者が深く関与してきた歴史は重要ですし、記憶されるべきものです。ただ、それは個々の卒業生の功績や、当時の大学指導部の判断が評価されるべき話であって、現在の大学の教育力や研究力、制度的優位性を直接裏付けるものではありません。
大学という組織を評価する際に、過去の卒業生の社会的貢献を積み上げて現在の価値を語り始めると、議論はどうしても象徴論に寄ってしまいます。ノーベル平和賞は学術成果ではなく、市民運動と倫理的実践への評価です。その意義を矮小化する必要はありませんが、大学改革や研究大学論の文脈にそのまま接続するのは無理があります。
「もっと知られるべき」「まず知ることが力になる」という言葉は正論に見えて、制度論としては弱い。知ること自体が価値になる領域と、制度設計や資源配分の妥当性を問う領域は分けて考える必要があります。後者では、理念や歴史への敬意だけでは何も動かない。
重要なのは、こうした理念や歴史を担ってきた人材が、現在の大学制度や研究環境の中でどう育ち、どう支えられるのかです。そこが語られない限り、話は回顧にとどまります。
意義を噛みしめることと、現状を評価し、将来の制度を設計することは別の作業です。その線を曖昧にしたままでは、議論は前に進まないと思います。




































