今年入学した高1生が語る青春リアル
旧帝かマーチ
ちなみに東大に入れる実力はありません。
偏差値的には、地方旧帝かマーチなら入れそうです。
早慶は下位学部なら狙えますが、志望学部は無理です。
正直地方の生活は想像できず、まだ大阪ぐらいならとも思うのですが、関西弁がキツすぎて、マーチかなと思っています。
私は、社会人30年超えましたが、確かに20代までですね。私は某金融機関に就職して、30の時に某大手不動産会社に転職して今に至りますが、転職した不動産会社、東大出や早慶出居ますが、やはり勉強と仕事は全く別で実績上げ、頑張った者が上に上がります。
勿論、同程度なら東大出や早慶出が評価される事は有るでしょうが。
一流大学出で満足して、楽しようとする者は埋もれます。
〇〇大学卒業何て肩書で社会の荒波は乗り越えられません。ゴロゴロ居ますから。
貴重な先輩のお話、ありがたく拝聴しました。おっしゃる通りで、個々の職場では結局、成果と軌道で評価が決まる。この点は異論ありません。
ただ、その上で強調したいのは、日本ではそこに至る入口そのものが最初から極端に狭く固定化されているという構造です。ここが就職時に学歴も年齢も聞かれないアメリカと決定的に違う。
私は外資と国内大手の双方でアライアンスを組んだ経験がありますが、某財閥系の電機企業と組んだ際、担当の若手が聞いてもいないのに「私は慶應卒なんですが」と自己紹介をしてきて驚きました。さらに別部署で別社員でも全く同じ形式の自己アピールがあった。
一方、外資では、結果が出た後で担当者がIVY出身だったと後から知ることはあっても、自ら学歴を名乗った例は一度もありません。
入口の狭さがそのまま文化を形づくり、文化が行動様式を固定化し、その固定化が挑戦機会を奪っていく。
学歴が呪縛になるのは個人の意識の問題ではなく、制度と文化がそういう振る舞いを合理的にしてしまっているからです。
だからこそ論点は、誰が努力したか、どこで埋もれたかではなく、その努力が公平に試される環境を国家としてどれだけ用意できているか、という設計そのものにあると思うのです。
東京一工大、旧帝大、早慶、March、に入るには、高校も進学校で、共テ対策しっかりしないと難しいし、努力が必要。
就活、昇進にも大学名は関係してると思う。
そして、上司の大学名も部下の間で話題になるのも事実。
そんな感じでしょうか。
周りを見ると一定レベル以上の大学を出ている人は論理的思考、知的好奇心、向学心がある方が多いです。
そういう人は必要な知識等は自分で取得して仕事の幅を広げていくようですから、学歴を当てにする必要もないですし、しないでしょう。
例外もありますが、優秀な人は大概一定レベル以上の大学を出ていて、社会に出てからも活躍されているようです。
学歴フィルターでは学歴は役に立ちますが、その後は学歴に頼る必要もないのでしょう。
若い頃に一定レベルの大学に進んだ人に、論理的思考や好奇心の強さが多いという感覚はわかります。ただ、その関係は因果というより、環境に触れた濃度の違いとして捉える方が実態に近いと思っています。学歴の有無ではなく、どんな刺激に触れ、どんな負荷を受け、どんな選択を積み重ねてきたか。その総量が社会に出てからの伸び方を決めるからです。
社会に出てしまえば、出身大学そのものが意味を持つ場面はほとんどありません。そこで必要になるのは、学ぶ姿勢を更新し続けられるかどうかで、肩書やフィルターはせいぜい入り口の話にすぎません。実際、現場で強さを発揮する人ほど、学歴の話をしません。学歴を誇る必要がないほど、自分の仕事で語れているからです。
学歴が役に立つのは入口だけで、その後の価値は自分の手で磨くしかない。そういう意味では、学歴の高低よりも、環境に出たあと何を吸収し、どう広げたかの方が決定的です。そこにこそ個々の力量が現れますし、社会で評価されるのも結局そこだと思っています。
就活だとかプレゼンスだとか、数字で切り取れそうに見える現象ほど、実際にはその背景に膨大な層が積み重なっていて、どこからどこまでを基準にするのかで風景がいくらでも変わるので、単純な比較だけでは捉えきれない部分がとにかく広く存在しているんですよね。受験生の層という話にしても、年度ごとの微妙な揺れや、学校ごとの内部進路指導のスタイル、地域ごとの大学選好の偏り、それらが全部地層のように積み重なって、数字の裏側に別の数字が潜んで、さらにその裏側にまた異なる要素が沈んでいく。
倍率がどうこうというのも、その数字だけが自立しているわけではなくて、科目の傾向、併願の動線、塾や学校で共有される観測値、受験生が受け取る空気の濃淡、それらを全て含んだ巨大な揺らぎの一点としてたまたま出てくるだけなので、何か一つの線で判断できるようなものでは全くないはずなんですよね。対策すれば、と一言でまとめられる領域も、実際にはどの科目をどの順で詰めていくか、理解の速度や学習素材の質、生活リズムやメンタルの変動など、とても一枚の言葉では括れない厚みがある。
私大や国立のプレゼンスについても、企業側が重視する軸が年度ごとに微妙に変化して、学部単位で評価が揺れたり、採用地の事情で大きく配置が変わったり、広く見れば安定しているようで、その実、細部では潮の満ち引きのように常に動いている。そういう大きな流れと細かい波が同時に存在している場所では、お得とかコスパといった直線的な言葉を投げ込むと、逆に輪郭が溶けていくように感じられて、判断軸をどこに置くかで見える景色が変わり続けていく。
だから、どちらがどうとかより、数字や印象の手前にある複雑な層の立ち上がり方をぼんやり眺めていると、比較そのものよりも、比較という行為が置かれている地面の不安定さの方が気になってしまう。そこを踏まえると、プレゼンスや合格可能性の話も、結論という形を持たないまま、ただ多層的に漂っている現象の一部なんだろうなと感じるだけで、どれが得かといった話題の輪郭自体が徐々に霧散していく。




































